2009年01月10日
ハメット

今日、1月10日は、ハードボイルド小説の巨星、ダシール・ハメットの命日です。
すでに古典文学の趣きさえある「マルタの鷹」か、個人的に好きな「影なき男」か、どちらかを紹介するつもりでした。でも、彼の簡潔な文体はウイスキーの銘柄まで明かしておらず、記事の切り口が思い浮かばなかったので、代わりに、ジョー・ゴアズの「ハメット」を取り上げます。
「そいつらにそのいかれた頭をぶちのめしてもらうんだな」ハメットの頭から自分のいったその言葉が消えなかった。ピンカートン社時代の旧友が、その言葉どおり、頭をグシャグシャに砕かれて殺されたのだ。おそらくハメットが手助けを断ったばかりに…。
1928年、ダシール・ハメット、34歳。
探偵稼業から足を洗って7年、彼の目下の最大の関心事は「赤い収穫」の加筆と「デイン家の呪い」の完成だった。
そんな時、腐敗しきったサンフランシスコ市政浄化のための調査を始めた旧友が殺された。ハメットは、元ピンカートンの凄腕探偵、ジミー・ライトとともに“卑しい街”へと足を向ける。
見返しストーリー紹介より
ハメットが探偵会社で働いていたときの経験や伝聞をもとに創作したのは有名ですし、「赤い収穫」、「デイン家の呪い」の主人公のコンチネンタル・オプも、上司だったジミー・ライトがモデルといわれています。
「なかなかいい部屋じゃないか」と、ハメットがお世辞めかしていった。
「ああ、パレス・ホテルの椰子のある中庭ってところかな」
男はビールの小樽を二つ離しておいて、その上に幅二フィート長さ十二フィートの、削ってないままの板を渡したものの向うにまわった。
「なにがいい」
「ライは?」
「カナディアンの七年ものだ」
ハメットは板の上に肘をついて寄りかかり、あたりを見まわした。背のまっすぐな椅子が数脚、白いエナメルの塗りがはげたキッチン・テーブルが二つ。その一つには人影がなかったが、もう一つには、酒壜が一本とグラスが三つ、そして人間の肘が六つのっていた。
肘の持主であるイタリア人たちは、外套のボタンをきちんとかけ、黒い髪の頭にソフト帽をまっすぐのせていた。だれもしゃべってはいなかった。電燈がその三人の影を、タールのような濃さで、床と壁に映しだしていた。
「ちょっとこいつを舐めてみな」
バーテンダーが笑いながらいった。鼻は曲り、スパニエル犬のような眼をしている。
ハメットはぐいと呷った。眼がまるくなった。
「こいつは一パイントいくらだ」
「あんたに売るのにかい。三ドル五十さ」
「だれにも同じなのか」
「三ドル五十さ。いいかい、そいつは一ケース五十六ドルでこの店から出ていくんだ。おれの従兄がドム・プロンジーニのためにこいつを船で運んでるんだがね。やつの取り分は-」
「ジョゼップ」
テーブルに肘をついていた一人が、バーテンダーにむかって、砂をつめた靴下で殴りつけるような声を投げた。それから、ハメットに向っていった。
「酒を手にいれたら、さっさと帰るんだな」
実在した人物が登場するミステリーは、えてしてフィクションの嘘臭さが鼻についてしまう場合がありますが、ゴアズは、見事なまでに虚実の狭間に読者を迷いこませ、ハメットが老いて人生を終えたことを忘れさせてしまうほど、死線をさすらう作家の姿には緊迫感が漂っています。
また、密輸入されたカナディアン・ウイスキーがひと瓶3ドル50セント、同じく密造ワインが10セントなど、禁酒法時代の闇酒の相場や、ライ・ウイスキーのオールド・ドハティ、スコッチのアンティクアリー、アイリッシュ・ウイスキーのシャノン・ミストといった、当時、人気の高かったウイスキーの銘柄が分かり、ミステリーとしての愉しみのほかにも、なにかと興味深く読めました。
ロード・ムービーの名手、ヴィム・ヴェンダースが監督し、フレデリック・フォレストがハメットを演じた映画も、かつてのフイルムノワールの雰囲気が醸し出された名作です。
ただ、日本では原作の出版が映画の公開まで遅れたため、ノヴェライズのようにみなされてしまったのは、小説にとっては良し悪るしでしょうね。



