ウスケバ・ロゴ ウスケバ・ロゴ ウイスキー造りに欠かすことの出来ない「水」そして「樹」。自然の力が生み出す「生命の水」。

2009年05月31日

歌う砂





















「しゃべる獣たち/立ち止まる水の流れ/歩く石ころども/歌う砂/……/そいつらが立ちふさがる/パラダイスの道に」……事故死と断定された青年の書き残した詩。
 偶然それを目にしたグラント警部は、静養中にもかかわらず、ひとり捜査を始める。次第に浮かび上がってくる大いなる陰謀。最後に取ったグラント警部の選択とは……。

見返しストーリー紹介より

 レイモンド・チャンドラーが注目した「フランチャイズ事件」、江戸川乱歩が絶賛し、いまだに読み継がれている歴史ミステリーの名作の「時の娘」で知られる、ジョセフィン・テイのグラント警部シリーズの最終作が、半世紀を経てようやく日本に紹介された「歌う砂」です。

 三月の朝六時はまだ暗かった。レールの分岐点ごとにゴトリと音を立て、長い列車が駅の敷地に散りばめられた光の中をにじり寄ってくる。幾つものルビーとただ一つのエメラルドの信号灯の下、車体は消えては浮かんだ。進行方向には、アーチ形の屋根の下に灰色で空っぽのプラットホームが待ちわびていた。
 ロンドンからの長旅はここで終着。
 背後の暗闇には、一夜に走った五百マイル余りのレールがユーストンから続いている。その五百マイルには、月光に照らされた野道があり、眠れる村があり、漆黒の町で一晩中動いていた暖房器具があり、そして雨と霧と霜、雪まじりの風雨、さらにトンネルと陸橋が幾つもあった。
 三月の午前六時らしい冷気の中、丘がまあるい姿を現す。列車は何気ない顔をして静かに進み、長かった緊張を解いて休もうとしている。細長く続く人混みの中で、実感の込もった安堵のため息をつくことのできなかったのは、ただ一人。


 情景がありありと浮かぶいいプロローグです。
 神経症を患ったスコットランドヤードのグラント警部は、故郷のスコットランドに向かう列車の車上で、若い男の死体に出くわします。彼が持っていた新聞には未完の八行詩が書き残されていました。
 静養のための旅行にもかかわらず、グラントの刑事の性分が目覚めます。そして、青年の死の背後に壮大な事件が隠されていることを突きとめるのでした。

 ケイリーのあいだ中、ホールの後ろの男たちが行ったり来たりしていた。グラントは気にもかけていなかったが、誰かに腕を掴まれ、耳もとで「軽く一杯やりませんか?」と囁かれて、島の歓迎を受けたと知った。島の商品として一番貴重な品を一緒にどうかというのだから、拒んでは失礼だ。グラントは申し出てくれた人物に礼を言い、あとについて暗闇に入った。
 会議室の風下の壁に沿って、クラダ島の典型的な男たちが、数人無言で満足そうに立っている。グラントの手に平べったい小瓶が突き出された。「スロンチャ!」と乾杯し、グイッとやる。暗闇に慣れた目が小瓶を手に取り戻し、健康を祈った。それから名も知らぬ友人のあとをついて明るいホールに戻る。そのときグラントは、トッド氏が密かに合図を送ってくるのを見た。そして彼も小瓶の中の何かを求めて闇の中へ消えて行った。こんな光景は他では見られない、禁酒法時代のアメリカなら別だが。
 どうりでスコットランド人は、ウイスキーのこととなると、ばかばかしい共犯者じみた惚け方をするはずだ(もちろんウイスキー生産地のストラススペイは例外。ストラススペイではイングランドの男が当たり前にするように、ちょっと自慢たらしくテーブルのまん中にボトルを置く)。彼らがウイスキーを飲むということを何か望ましい、大胆な行為であるかのようにふるまうのも納得がいく。スコットランド人が「スコッチ」と言うときに浮かべる、あの意外で意味ありげな卑しい目つきは、教会や政府による禁酒令が敷かれた時代の名残りなのだろう。


 捜査の過程でアウター・ヘブリティーズ諸島に渡ったグラントが、島民が集まったケリーに招かれる場面です。

 1950年代ごろまでハイランドの辺境では、おおっぴらに飲酒するのは慎まれていたようです。
 ウイスキーの本場だけに意外に思えますが、プロテスタントのなかでも長老派はとりわけ戒律が厳しいらしく、また、どんな宗教であれ、地方の人びとほど信仰に篤いですしね。
 バーボンの生産地のケンタッキー州も、郡の過半をドライ・カウンティ、禁酒郡が占めていることに通じるものがあります。

「犯罪の女王」ことアガサ・クリスティはもちろん、女流作家を語らずして英国ミステリーは語れず、とあらためて感じた一冊です。テイはインヴァネスの出身で、スコットランド人の女流作家なら、最近だとキャンベルタウン生まれのジル・マゴーンも有名です。機会があればいつか取り上げましょう。

シリーズ・リスト

「列のなかの男」 論創社海外ミステリ 2006
「ロウソクのために一シリングを」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 2001
「フランチャイズ事件」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1954
「美の秘密」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1954
「時の娘」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1954
「歌う砂」 論創社海外ミステリ 2005  

2008年11月26日

燃える男




















 コルシカ島の港町バスチアは季節はずれの暖かさで、これに誘われ、ある酒場の亭主は椅子とテーブルを敷石の舗道へ持ち出した。男が一人、椅子に掛けてウィスキーを飲み、リボルノ行きのフェリーが出航の準備をしている波止場のほうを眺めていた。
 男は二時間もそこにいて、ひっきりなしに店内へ手で合図してウィスキーの追加を求めるので、亭主はついにボトルと黒オリーブの大皿を運び出した。
 ちいさな少年が道の反対側の縁石に腰かけ、男がウィスキーでオリーブをどんどん流しこむようすを、じっと見守っていた。


 ある孤高の男の長い物語のプロローグです。

 かつて外人部隊で勇名を馳せたクリーシィ。人生に倦み疲れた彼はイタリアへ渡り、富豪の娘のボディガードをしていたが、そんなある日、娘が突然誘拐され、惨殺された。怒りに血をたぎらせ、復讐に燃えるクリーシィ。彼はバズーカを携え手榴弾を握りしめて単身敵地に乗りこんでゆく。たった一人の復讐戦争の幕はついに切って落とされた。
文庫版 裏表紙ストーリー紹介より

 陳腐な邦題と物騒な語句が並ぶあらすじだけをみると、派手なガンアクションとエロチックなシーンが繰り返される、凡百のアクション小説のようです。しかし、心憎いプロットと、魅力的な人びと、マルタやイタリアのエキゾチックな描写が三位一体となった、このジャンルの傑作です。
 熱心な読者も多く、なにしろ、作者と主人公がともに暮らした、マルタのゴッツォ島を訪ねた日本人が何人もいて、覆面作家だったクィネルが感動して素性を明かしたぐらいですから。
 かくいうぼくも、クィネルが健在のあいだに一度は渡ってみたかったです。

 少年は男が流暢なフランス語でウィスキーを注文するのを聞いたが、フランス人ではなさそうだと見当をつけた。男が身につけているダークブルー・コーデュロイのズボンと、黒いポロネックのセーターに重ねたデニムの上衣は、高価そうだが着古され、男の足元に置かれた革のスーツケースもまた古めかしかった。少年はよそものの値踏みにかけてはおおいに経験を積んでいて、特に金持ちかどうかを見分けるのが得意だった。しかしこの男については、少年は判断がつきかねた。
 男は腕時計を一瞥し、最後のウィスキーを注いだ。それを一息に飲み干すと、スーツケースを拾いあげ、道を渡ってやってきた。
 少年は男が近づくのを見守りながら縁石にじっと腰かけていた。男のからだつきは顔と同じで、いかつかった。男がそばまで来て初めて、少年はとてつもなく高い背丈に気づいた。六フィートは軽く越えていた。体格のわりに歩きかたがおかしかった。左足のせいだった。左足が外側のほうから先に地面へつくのだった。


 丁寧で韻文的な訳文もいいでしょう。シリーズのファンなら、クリーシィの歩きかたをとらえた場面でいつもわくわくしますよね。
 ぼくがトニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演の「マイ・ボディガート」を評価しない理由はいろいろあるけれど、デンゼルがクリーシィの仕草をちゃんと演じていなかったのもそのひとつです。歩きかたにまで神経を配っていたら、たとえカラードのクリーシィでも認めていたのに。とはいえ、それならクリーシィの適役は誰かと問われても悩みます。初めて読んだころなら、ニック・ノルティかクリス・クリストファーソンか、あるいは、ジェラール・ドパルデューもありかなと思っていました。でも、みんないよいよ老けちゃったし。いまは大柄で無骨な、腰の据わった役者が少なくなりました。

 さて、映画でクリーシィが飲んでいたのはジャック・ダニエルでした。彼がテネシー州の生まれだから登場させたのかもしれません。ただ、原作を読むかぎり、クリーシィの好きなウイスキーはスコッチです。シリーズにはシーバス・リーガルがよく出てきますが、もっと手頃なブレンディッド・スコッチでしょう。「愛馬グラディエーター」のイメージなら、さしずめホワイトホースかな。





















シリーズ・リスト

「燃える男」 集英社 1982
「パーフェクト・キル」 新潮文庫 1994
「ブルー・リング」 新潮文庫 1995
「ブラック・ホーン」 新潮文庫 1996
「地獄からのメッセージ」 新潮文庫 1997
「愛馬グラディエーター」 集英社 2001 短編集「地獄の静かな夜」に収録