2009年03月17日
酔いどれに悪人なし

アイルランドに私立探偵はいない。アイルランド人はそんなものになろうとは思わない。私立探偵に対するイメージはアイルランド人が嫌う”タレコミ屋”と紙一重だ。たいていのことは逃げおおせても、”人の口に戸は立てられない”ということだ。
おれが手がけたのは物探しだった。べつに難しい仕事じゃない。辛抱強くて豚のように頑固ならできる。後者はおれの最大の強みだ。
と言っても、ある朝目を覚まし「神はわたしに発見者となれと仰せになった!」と叫んだわけじゃない。神はおれのことなどなんとも思っちゃいまい。
神には本物の神とアイルランド版の神がいる。だから神は無責任でも許される。興味がないんじゃなく、わずらわされたくないだけだ。
前職が前職だから、おれは有利だと思われていた。仕事のやり方を心得ていると思われていた。長年にわたって、人々はおれを訪ねてきては助けを求めた。
運が味方し問題を解決できた。誤った前提の上にささやかな評判が築かれていった。
なんと言ってもおれは安かった。
酒のせいで警察を辞職する羽目になったジャックは日々行きつけの店で飲んだくれ、飲まないときは読書をするか、前職を活かした探偵業にいそしんでいた。ある日、いつものように飲んでいると、美しい女が自殺した娘の死の真相を調べてほしいと頼んできた。望みの薄そうな調査に始めはいやいやだったジャックだが、ある事件をきっかけに負けじ魂に火がつく!
裏表紙ストーリー紹介より
今日、3月17日は、アイルランドの守護聖人、セント・パトリックの命日のセント・パトリック・デイです。
そこで、アイルランドの作家、ケン・ブルーウンのゴールウェイのアル中探偵、ジャック・テイラー・シリーズの第1作で、2004年のエドガー賞の最優秀長編賞にノミネートされ、同年のシェイマス賞の最優秀長編賞を受賞した、「酔いどれに悪人なし」を紹介しましょう。
夢にもサウンドトラックがあるのだろうか。ほら、悪夢を見てるときは、へヴィメタルかボーイゾーンが聞こえてくるじゃないか。眠っているあいだ、甘い南カリフォルニア・サウンドが流れている気がした。親父の夢を見ていた。まだ幼いおれが、エア・スクエアで親父と手をつないでいた。一台のバスが目の前を通りすぎ、その瞬間、おれは字が読めることに気づいた……車体広告を声に出して読んだ。側面の文字は…
パディ
親父は大喜びだった。おれが初めて字を読んだからというだけじゃなく、それが親父の名前だったからだ。もっと皮肉な見方をすれば、おれが初めて読んだ単語はアイリッシュ・ウィスキーの名前だったわけだが。
ゴールウェイはトラッド音楽が盛んな土地柄なので、のどかな作風を予想していたのですが、荒々しく疾走感に溢れた一冊でした。
シェイマス・スミスといい、最近のアイルランドのミステリーは暴力的なタッチの作品が多くて、ここのところめっきり体力が落ちたぼくにはいささか堪えます。でも、父親との思い出に何度も浸るあたりがいかにも家族主義のアイルランド人らしく、殺伐としたストーリーのなかにも和ませてくれます。
いつだって本がそばにあった。おれのすさんだ人生のなかで、本だけが不変だった。
おれをいちばんよく知るサットンでさえ、あきれてこう叫んだ。
「本なんか読んでなんになる、相棒? 元警官のくせして、まったくもう」
完璧なアイルランド式論理。
それ以来、おれは耳にタコができるほどやつに説明してきた。
「読書は我を忘れさせてくれる」
彼はいつもの単刀直入な物言いでこう切り捨てた。
「たわごとだ」
前にも言ったが、おれの親父は鉄道会社に勤めていた。親父はカウボーイ小説に目がなかった。上着のポケットにはいつも、ボロボロになったゼイン・グレイの小説が入っていた。そしていつしか、おれにそれを貸してくれるようになった。おふくろはしょっちゅう言ったものだ。
「本なんか読ませたら、女みたいになちゃうじゃないの」
聞こえる範囲におふくろがいないと、親父は耳打ちした。
「母さんの言うことなんか気にするな。あれだって悪気はないんだ。けどな、本を読むのはやめるな」
「どうして、父さん?」
べつに読書がやめたくて訊いたわけじゃない。そのころにはすでに魅力に取り憑かれていた。
「本は選択肢をあたえてくれる」
「選択肢って何?」
親父は遠くを見るような目つきになって言った。
「自由だよ、坊主」
ああ、ジャックと親父の気持ちが痛いほどわかる。

アイルランドは、ノアの大洪水ののち、アイルランドへ渡来してきた人びとが建国した伝説上の五つの国、コーゲトを起源とする、レンスター、マンスター、コナハト、アルスターの、ボトルラベルの地図で4色に色分けされている地方に大別され、青色で表されたマンスター地方の中心がコークです。
6世紀にセント・フィンバルが湖沼のほとりに建立したとされる修道院をもとに発展した、共和国ではダブリンに次いで大きな、とはいっても人口は12万人ほどの町で、コークは「沼地」を意味します。
パディ・オールド・アイリッシュ・ウイスキーは、1779年に創業したノース・モール蒸留所で誕生しました。蒸留所は1920年に火災で焼失し、ジェイムズ・マーフィー蒸留所にラインが移された当時、パディ・フラハティという有能な行商人がコーク・ディスティラリーズ社、CDCにいました。彼が売り歩いていたオールド・アイリッシュ・ウイスキーは、いつしか、親しみをこめてパディと呼ばれるようになります。
パディは、アイルランドの守護聖人でもあるパトリックの愛称で、パトリックはアイルランド人に特有の名前です。アイリッシュ・ウイスキーにふさわしいネーミングだと蒸留所の幹部が考えたのか、このエピソードがきっかけで、パディにブランドネームが改められました。現在は、アイリッシュ・ディスティラーズ・グループ、IDGのミドルトン蒸留所で生産されています。
ところで、1979年に法律によって強いられるまで、パディのボトルラベルのウイスキーのスペルはWHISKYでした。
いまさら語るまでもなく、アイリッシュ・ウイスキーのすべてと、バーボンの大半の銘柄は、WHISKEYとウイスキーのスペルにEがつきます。
武部好伸氏が著書の「ウイスキーはアイリッシュ」のなかで、本来はアイリッシュ・ウイスキーのスペルもWHISKYだったのが、19世紀末、品質の高かったダブリンの蒸留所のウイスキーが、地方のウイスキーとの差別化を図るためにEを加えた、と明かされています。さらに調べたところ、1900年の前後十年ほどのあいだに、ほかのウイスキーも真似て全土に広まったようです。
1172年のヘンリーⅡ世のアイルランド遠征の文書に、大麦が原料のウシュクベーハと呼ばれる蒸留酒が飲まれている、と記されていて、アイルランドこそウイスキーの母国、との通説の根拠になっているのは、ウスケバの皆さんならよくご存じでしょう。ただ、ウシュクベーハなるものをどこで目にしたかまでは、日本ではあまり知られていません。
その場所がコークで、アイルランド最古の町にしてウイスキー発祥の地としての誇りが、逆説的ながら、パディがWHISKYの表記にこだわった理由なのかもしれませんね。
シリーズ・リスト
「酔いどれに悪人なし」 ハヤカワ文庫 2005
「酔いどれ故郷にかえる」 ハヤカワ文庫 2005
タグ :セント・パトリック・デイ



