2009年03月26日
かわいい女

小石をはめこんだような模様のガラスのドアにはげかかった黒ペンキで、「フィリップ・マーロウ……探偵調査」としるしてある。タイルで張りつめた浴室が文化の象徴であった時代の建物にふさわしい見すぼらしい廊下のはしの同様に見すぼらしいドアである。そのドアは鍵がかかっているが、同じ文字がしるされてある隣りのドアは鍵がかかっていない。遠慮なくはいりたまえ-中にいるのは私と大きな青蠅だけだ。
だが、カンサス州マンハッタンから来た人間ならお断りだ。
失踪した兄を探してくれと、かわいい娘がマーロウのもとへあらわれた時、彼は娘の態度の中にある奇妙ないつわりに興味を抱いた。娘のさし出す虎の子の20ドルを受けとって、彼は腰をあげることにした。報酬の多寡は問題ではなかった。それは真実をあばき出すことを天職とする者だけが知る、権力にも金にも女にも屈せずに進む非情のむなしさであった。舞台は映画王国ハリウッド。街の顔役、ギャング、映画女優、愛欲と物欲が十重二十重に錯綜する背景をさぐるマーロウの行く先には、死体と拳銃の雨がふる!
見返しストーリー紹介より
今日は命日なので、いよいよハードボイルド小説の巨星、レイモンド・チャンドラーを取り上げましょう。まずは「かわいい女」です。
ちょうど没後50年になるのか。この記事を書くまでまったく気づきませんでした。
私は手をのばして、ウイスキーの壜をデスクの上においた。三分の一ほど残っていた。オールド・フォレスターだ。いったい、誰にもらったのだ。緑色のラベルの品物だ。お前などが飲む品物ではない。依頼者がくれたものにちがいない。私にもかつては依頼者がいたのだ。
いまでこそありふれたバーボンと見なされているオールド・フォレスターも、チャンドラーが「かわいい女」を発表した1949年ごろは、高級な銘柄で、しかも、ラベルが緑色だったようです。
また、当時と異なるのはラベルのデザインだけではありません。フォレスターのスペルも変わっています。
ブランド・ネームが、南軍の将軍、ネイサン・ベッドフォード・フォレストに因んでいるというのは、多くの書籍に記述されているものの、フォレスト本人についてはほとんど言及されていません。
フォレストは、一兵卒として従軍すると、「最大の力で、最速で」を旗印に、騎兵を率いて大いに北軍を苦しめ、将軍にまで昇進した有能な軍人です。しかし、南北戦争のまえは奴隷商人のうえ、テネシー州のピロー要塞において、降伏した北軍の黒人兵士の虐殺を命じ、戦争が終わってからは、かの悪名高きクー・クラックス・クラン、KKK団が結成されたさいに、幹部のグランド・ウィザードに祭り上げられたりと、なにかと問題の多い人物でもありました。
それゆえに、公民権運動の高まりとともに、ネーミングの由来としては相応しくなくなり、FORRESTERからFORESTERに変更されたのではないかと、個人的には考えています。
差別意識、とりわけ日本人への偏見が目につく、チャンドラーに似合いのウイスキーといってしまうと、皮肉が過ぎるでしょうか。
私は姿勢を変えて、腕時計を眺め、かのオールド・フォレスターを引出しから出した。私は匂いを嗅いだ。いい匂いだった。私はグラスにたっぷり注いで、明るいほうに高くさしあげた。
もちろん、ウイスキーにはなんら罪はないですよ。オールド・フォレスターのボンデッドは好きなバーボンのひとつですし。
ブラウン・ファーマン社の創業者、ジョージ・ガーヴィン・ブラウンは、1846年にハート郡のマンフォードヴィルに生まれました。17歳でルイヴィルの薬問屋で働き始め、そこで薬用ウイスキーを扱っているときに、「ビールは殆どシンシナチからやってくる。ウイスキーは地のものだ。ウイスキーが儲けになる」と気づき、1870年、兄弟のジョン・トンプソン・ストリート・ブラウン・ジュニアとともに、J・T・S・ブラウン&ブラザーズ商会を設立します。
彼らはメルウッド蒸留所やJ・B・マッティングリー蒸留所から原酒を仕入れてブレンドし、シドロス、アサートン、メルウッド、メイジャー・ポールズ、ウィドー・マクビー、ラルーズ・ベストなどのブランドのウイスキーを、樽詰めして酒場に卸していました。ところが、なかにはウイスキーを水で稀釈して売る取引先もあって、自社の信用にも関わる、その不正を防ぐ方法はないかと考えたブラウンは、薬瓶からヒントを得て、ウイスキーをボトルで販売することを思いつきます。
そして、1874年にアメリカで初めて瓶詰めされたウイスキー、オールド・フォレスターを発売します。
ちなみに、スコットランドで初めて瓶詰めされたウイスキーはデュワーズで、1860年代の後半とされており、オールド・フォレスターに先んじること10年足らずです。どちらの伝聞も事実だとしたら、興味深いシンクロニシティですね。
当時のブラウンについて、息子のロビンソンがつぎのように語っています。
「瓶詰前のウイスキーを入れるタンクは事務所のすぐそばにあった。ブレンド係はこのタンクに所定の数の樽をあけ終ると、その一部をグラスにとって父のところに持ってくる。父はまずその一部を掌にとって手をもみ、それをかぐ。それからグラスのウイスキーをすこしばかり含み、口の中でころがしながらゆっくりとソファに腰をおろし、やがてそいつを、暖炉の火に向ってはきかける。そしてブレンド係にむかってこう言う。“ヘイ ジム、あの七年ものの、そうだ、秋出来のやつを三樽ばかり、ほうり込みな”
事務所の暖炉は大きかった。父がウイスキーのサンプルを火に向ってはきかける度に、蒼白い炎の舌がのび、よくもまあ絨毯が焦げないものだと不思議に思ったものだった」
新洋酒天国 佐治敬三 著 文藝春秋
ジョンが引退すると、重役だったジョージ・ファーマンが新しいパートナーになり、1890年に社名がブラウン・ファーマン社に改められました。ファーマンが1901年に、ブラウンが1917年に他界したあとは、ブラウンの息子のオウズリー、曾孫のブラウン3世たちが家業を継いでいます。

シリーズ・リスト
「大いなる眠り」 東京創元社 1956
「さらば愛しき女よ」 早川書房 1956
「高い窓」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1959
「湖中の女」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1959
「かわいい女」 東京創元社 1957
「長いお別れ」 早川書房 1958
「プレイバック」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1959
「プードル・スプリング物語」 早川書房 1990
未完の遺稿をロバート・B・パーカーが加筆



