2009年01月04日
呼びだされた男

ブライアン・フリーマントルが生んだエスピオナージュ、スパイ小説のヒーロー、チャーリー・マフィンのシリーズの第3作です。
着崩れたスーツに履き古したハッシュ・パピーでよちよちと歩く、風采は冴えず若くもない丸顔の小男。銃器も格闘術も不得手で、ジェームズ・ボンドとはほとんど対極に立つスパイ像です。ところが、知恵と経験のみを頼りに幾度も敵を欺き、自分を捨て駒にしたMI6とCIAのトップはおろか、両国の首脳さえも失脚させた過去がある凄腕のエージェント。労働者階級の生まれのうえ学歴もグラマー・スクールどまりで、飼い犬に噛まれた組織にとってはアンタッチャブルな存在ゆえに閑職に追いやられながらも、したたかに生き延びている、ソ連の将軍いわく「稀有な、ほんもののプロ」です。
本作では、恨みをかこつ英米の情報部に追われ、チャーリーはまだ逃亡生活を送っています。しかし、慕っていたウィロビー部長の息子で、前作の「再び消されかけた男」で助力してくれたルウパート・ウィロビーが陥った窮地にさいして、恩義に報いるべく、危険を顧みずに奔走します。
次作の「罠にかけられた男」と続く「追いつめられた男」でもルウパートのために働き、6作目の「亡命者はモスクワをめざす」で、ようやくチャーリーはMI6への復職を許されます。
それからは安心して楽しめたものの、この「消されかけた男」あたりまでは、チャーリーの死とともにいつシリーズが終わってしまうか心配で、無事にラストを迎えるたびにほっとしたものでした。それだけに、近作よりもスリリングで読みごたえはありましたね。
酒を用意させておきましたよ」とネルスンが、いそいそした調子できりだした。
「どうぞ、やってくれたまえ」と、チャーリーはいった。
「あなたは?」
「飛行機で疲れちまってね」
チャーリーはそう答えて、相手がウィスキーへ手をのばすのを見まもった。
アイレー・モルトだなとわかった。彼がサセックスにある旧上司アーチボルド・ウィロビー卿の隠居所を訪ねたとき、卿が口にしていたのがその銘柄だった。あれはちょうどチャーリーが、旧情報部のおかしな失敗を口実にそれを乗っ取ってしまった卑劣漢どもに、一泡吹かせるべく出発する前日のことであった。
卿の居間の戸棚には、その壜が何本もならんでいた。哀れな老人は泥酔して眠りこみ、チャーリーが辞去したのも気づかなかった。検屍報告書によると、ウィロビー卿はそれといっしょに睡眠薬をたっぷり流しこんだとのことであった。
チャーリーが回想しているのが、つぎの「消されかけた男」の場面です。
「チャーリー!よくきてくれたな」と、卿は大よろこびで迎えた。
まばたきがはげしくなった。ひどく眼がうるんでいるのが、チャーリーにみえた。
「部長も、おかわりなく」と、チャーリーも応じた。
ふしぎだな、と彼は思った。カスバーストンにたいしてはとても無理な尊敬の念が、ウィロビー卿の前にでると無意識的、本能的に湧きあがってくるのだった。
「まあ、かけたまえ、きみ。腰をおろしたまえ。ウィスキーでもやらんかね。極上のアイレー・モルトがあるのだ」
チャーリーはすでにその匂いを卿の呼吸にかぎつけていた。卿は酒をカットグラス製のゴブレット二個につぎわけ、自分のを捧げもっていった。
「きみのためにだ、チャーリー。それから英国情報部のために」
「乾杯」

チャーリーがふだん愛飲しているウイスキーは、ウィロビー卿に感化されて同じアイラ・モルトです。入手できないときはマッカランで辛抱しています。
そのアイラ・モルトについて、作中で銘柄が明かされたことはありません。ミステリーによく登場するアイラ・モルトといえばラフロイグですが、おそらく違います。ステレオタイプすぎてチャーリーらしくないですから。
90年代の前半にはヒースロー空港の免税店で扱っていなかったなど、幾つかのヒントをもとに推理すると、極上かどうかはさておき、ブナハーブンではないかと思います。
ボトルラベルに印された、Westering Home 西の故郷へ、の惹句に、かならず東側から故国に舞い戻るチャーリーのしぶとさを重ねた、フリーマントル流のウィットでしょう。
シリーズ・リスト
「消されかけた男」 新潮文庫 1979
「再び消されかけた男」 新潮文庫 1981
「呼びだされた男」 新潮文庫 1982
「罠にかけられた男」 新潮文庫 1986
「追いつめられた男」 新潮文庫 1986
「亡命者はモスクワをめざす」 新潮文庫 1988
「暗殺者を愛した女」 新潮文庫 1989
「狙 撃」 新潮文庫 1993
「報 復」 新潮文庫 1998
「流 出」 新潮文庫 1999
「待たれていた男」 新潮文庫 2002
「城壁に手をかけた男」 新潮文庫 2004



