2009年06月21日
彼女は水草に抱かれ

女性弁護士キャスは、旧友から依頼され、アンバーという女性が代理母となる件を扱うことになる。そのアンバーが子供の引き渡し直後に決意を翻し、子供を連れて姿を消した。ところが、怒りに震えるキャスのもとに、アンバーが遺体で発見されたという知らせが届く。マスコミの取材合戦が続くなか、キャスは子供の売買を仲介する悪徳弁護士と見なされていく。汚名を晴らし、消えた子供を探すため、キャスは事実を追うが……
裏表紙ストーリー紹介より
ニューヨークの女性弁護士、キャス・ジェイムスンのシリーズの第3作です。
リトル・フレッシュ・キル。その名前は、長い草をかきわけ、ずぶずぶとめりこむ足跡の地面に目をこらしながら、のろのろと歩いているときに、わたしの頭のなかでころがりまわった。自分が何をさがしているのかと考えると、全身を戦慄が走った。
わたしは捜索隊の一員だった。赤いチェックの狩猟用ジャケットを着た男たち、青いウィンドブレーカーを着た警官たち、革ジャンを着た十代の少年たちがいた。大股で歩く男たちの後ろにつづく数人の女たちに混じり、まるで軍隊を追って移動する売春婦のような気分だった。
スタテン島はキルが、つまり狭い入り江がいっぱいある。かつては、木造船を操り、島を迂回してにぎやかなマンハッタンの港へ向かう船長たちを手こずらせるものだった。キルという言葉の語源は、水路を意味するオランダ語だ。殺しなどという邪悪な意味はないと、わたしの横を歩いているスタテン島の老人がおしえてくれた。いまはもうそういう船は姿を消し、わたしたちが重い足取りで歩いている沼地は、コン・エディスン工場と下水処理場の埋立地にはさまれている。
環境保護主義者たちは、こういう場所を“ウェットランズ”と呼ぶようになった。まさに適切な名称だ。わたしの足は、高く生い茂った葦の下に隠れた冷たい水に、くるぶしまで浸かっているからだ。だが、わたしに言わせれば、ここはただの沼沢地だ。秘密に満ちている。沼は人間を泥土のなかに吸いこみ、呑みこまれた人間は二度と姿をあらわさない。茶色と灰色がひろがる、人を寄せつけない土地だ。
遺体を捨てるのには申し分のない場所だ。
マンハッタンの沖合に浮かぶスタテンアイランドで、行方不明になった依頼人の捜索隊に加わるキャスの独白で物語は始まります。残酷ですが美しいプロローグです。
本国での発表順に準じて邦訳される幸福なミステリーは、それほど多くありません。おおむね、シリーズのなかの話題作や受賞作で市場の様子を見て、反応が良ければほかの作品を前後しながら刊行するパターンで、このシリーズも、MWA賞にノミネートされた、第4作の「いま一度の賭け」が最初に日本に紹介されました。
でも、1作目からとはいわないまでも、せめて本作をさきに出してほしかったと思います。
ネタばれになるので詳しくは明かせないけれど、「博物館入りしてもおかしくないような」、「奇跡のようなおいしい」シングルモルトで依頼人の死に落ちこむキャスを慰める、元恋人に対する読者の印象が、「いま一度の賭け」で劇的に変わってしまうからで、できれば無用な先入観なしに接したかったですね。
わたしはソファの背にもたれ、旧友を見つめた。マーラはインドのシルクのパジャマを着ていた。爪先の反ったペルシャ風のスリッパを、幅のひろい小さな足にはいていた。詰め物が多すぎる長椅子に座り、煙草をふかしているマーラは、『不思議の国のアリス』に登場する芋虫に似ていた。
「言い訳のしすぎじゃない?」グラスを唇にもちあげると、スコッチが舌にふれた。カティ・サークだ。いい酒だが、最高ではない。それから、マーラがジンを好んでいること、スコッチの神秘を理解していると期待してはいけないことを思い出した。
とにかく、女性ならではの感性と鋭い視線に、男として、ややもすればたじろぎそうになる、まぎれもないハードボイルド小説です。
ところで、冒頭、マンハッタンの沖合に浮かぶスタテンアイランドで、行方不明になった依頼人の捜索隊に加わっていたキャスは、発見された死体を目にして、スタテン島のオフィーリア、と独白します。おそらく、ミレイの「オフィーリア」を思い浮かべたのでしょう。ぼくも読んでいて同じ印象を抱きました。

その「オフィーリア」が収蔵されているロンドンのテート・ギャラリーの展示室で幕を開けるのが、毎回、実在する風変わりなパブの店名がタイトルにつけられた、マーサ・グライムズのジェリー警視シリーズの第12作、「『乗ってきた馬』亭の再会」です。

アメリカでは人気の高いシリーズも、英国での評判はあまり芳しくありません。彼らにしてみれば、アメリカの作家がステレオタイプのイメージで英国を描いているのが鼻白むみたい。その気持ちは分からないでもないし、ミステリーとしても本格派とはいい難い。でも、ジュリーの優しくてどこか寂しげな人となりと、部下のウィギンズ、仲間のメルローズ・プラントとプラントの叔母のレディ・アガサ、隣人のミセス・ワッサーマンとキャロル・アンら魅力的なキャラクター、雨と霧にくすんだ風景とスノビッシュで滑稽な人びと、それらが影絵のように柔らかな雰囲気を醸し出していて、ぼくは好きなシリーズです。
シリーズ・リスト
「彼女は水草に抱かれ」 ハヤカワ文庫 2001
「いま一度の賭け」 ハヤカワ文庫 1998
シリーズ・リスト
「禍いの荷を負う男」亭の殺人 文春文庫 1985
「化かされた古狐亭」の憂鬱 文春文庫 1985
「鎮痛磁気ネックレス」亭の明察 文春文庫 1986
「悶える者を救え」亭の復讐 文春文庫 1987
「エルサレム」亭の静かな対決 文春文庫 1988
「跳ね鹿」亭のひそかな誘惑 文春文庫 1989
「独り残った先駆け馬丁」亭の密会 文春文庫 1990
「五つの鐘と貝殻骨」亭の奇縁 文春文庫 1991
「古き沈黙」亭のさても面妖 文春文庫 1992
「老いぼれ腰抜け」亭の純情 文春文庫 1993
「酔いどれ家鴨」亭のかくも長き煩悶 文春文庫 1994
「乗ってきた馬」亭の再会 文春文庫 1996
「レインボウズ・エンド」亭の大いなる幻影 文春文庫 1998
2008年12月28日
悪魔の仕事

「狙われた大リーガー」に続く、ウィリアム・G・タプリーのブレイディ・コイン・シリーズの第4作です。
取材ノートを預かっていた友人の作家が猟奇的な手口で殺され、頼りにならない警察に代わって捜査を始めたコインは、被害者と同じ危険に晒されることになります。
「悪魔の仕事」が大あたりをとってから数ヶ月がすぎて、当初の騒ぎがおさまると、スチュー・カーヴァーがわたしの事務所に顔を出した。それは素晴らしく晴れた十月の金曜日の午後で、イェール大学ロウ・スクール時代のルームメイト、チャーリー・マクデヴィットとゴルフをするため、午後は時間をあけていた日だった。チャーリーは現在、司法省ボストン支局につとめていた。わたしはスチューに、時間は三十分しかさけないよといった。
「ああ、いいですよ」と、彼はいった。「ねえ、なにか飲むものはないですか?」
わたしは、ジャック・ダニエルがいいというほど舌がこえてない依頼人のために置いてあるカティサークのびんをとりだして、スリー・フィンガーほどついでやった。スチューはそれをぐいっと飲みほして、自分でおかわりをついだ。
評判のいい弁護士で上流階級とのつき合いも多いのに、コインは上物のワインやスコッチ・ウイスキーよりも、ジャック・ダニエルをこよなく愛していて、そんな庶民的なところにも好感がもてます。物語を楽しめるかどうかは、共感できるありふれた描写の積み重ねが大きいでしょう。
ところで、この作品にはちょっとしたサプライズがあります。
わたしは、新しいポルシェと古いダッジの間にBMWをとめて、館のほうへ歩きだした。手をとりあったふたりの男女が、長い、カーブしている小道にはった氷に足をすべらせながら、こっちにむかって歩いてきた。
「あらっ、ブレイディだわ」ふたりのうち、見ばえのするほうがいった。それはメアリー・アダムズで、彼女が手をとっていたのは、彼女の夫、ドクだった。彼は、わたしが釣りに行くときのいちばんいい相棒だったし、わたしを痛い目に会わせた、不愉快な歯科医たちの中ではいちばんいい先生だった。
そう、リック・ボイヤーの「ケープ・コッド危険水域」などの主人公、ドク・アダムズと彼の愛妻のメアリーがカメオで登場しているのです。反対に、ドクの作品にもときたまコインが顔を覗かせています。
ミステリーを読んでいると、たまにこんな場面に出くわします。作家同士の親交の深さがうかがえて、つい口元が綻んでしまいますね。本格的な共著よりも、なんだか得した気分になります。
シリーズ・リスト
「チャリティ岬に死す」 サンケイ文庫 1986
「呪われたブルー・エラー」 サンケイ文庫 1986
「狙われた大リーガー」 サンケイ文庫 1987
「悪魔の仕事」 扶桑社ミステリー 1989
「ウィラーからの電話」 扶桑社ミステリー 1990
「ウィンザー・ハーバーの醜聞」 扶桑社ミステリー 1991
「探偵レス・カーツの遺言」 扶桑社ミステリー 1991
「残酷な季節」 扶桑社ミステリー 1993
「守秘義務」 扶桑社ミステリー 1993
「ケープ・コッドの罠」 扶桑社ミステリー 1995
「哀しみの絆」 扶桑社ミステリー 1995



