2009年04月13日
雨の牙

山手線の車内で男は突然くずおれ、絶命した。それを見届けて、ジョン・レインは電車を降りた-作戦完了。日米ハーフの男レインは、東京で幾度も政治がらみの暗殺を手がけてきた凄腕の殺し屋だった。ある夜、彼は美貌のピアニストみどりと出会い、心を奪われる。意外にも、彼女はレインが山手線で殺した男の娘だった。しかし、やがてレインが依頼されたのはみどりの暗殺。彼女を救う唯一の手段は、政界に潜む依頼主の謀略をレイン自ら暴くことだった!
裏表紙ストーリー紹介より
店内を見回す。ふたり連れか、グループで来ている客ばかりだった。
店を出たかった。記憶を呼び覚まさない場所を探したかった。
だが、そんな場所はどこにあるだろう。
だから私は音楽に身を委ねた。音の連なりが弾むように遠ざかりながら私を誘う。私は手を伸ばしてその尻尾をつかみ、黒い潮のように私の周囲に渦巻き始めていた憂鬱の水たまりから抜け出した。そのまま音楽につかまって、喉でカオ・リラを味わい、耳でメロディーを味わっていると、やがてみどりの両手は輪郭を失い、彼女の横顔は黒髪に呑みこまれ、薄闇と紫煙に沈む観客の頭は揺れ始め、無数の指先はテーブルやグラスをリズミカルに叩き、みどりの両手の輪郭はますますぼやけて、ある瞬間、ふいに静止した。束の間の完全な静寂を、割れるような拍手が破る。
日本を舞台にした海外のミステリーは珍しくないものの、誤解や偏見も多く、いまだに首を傾げたくなる表現を見かけます。その点、このバリー・アイスラーのジョン・レイン・シリーズは、愛着とそれゆえのシリアスな視点で日本と日本人を捉えていて、ラストまで違和感なく読めました。
ただ、主人公に暗殺者の非情さが足りず、プロットも甘くて、出来はいまひとつなのが惜しまれます。
注文を聞きに来たウェイトレスに、十二年もののクラガンモーアを頼んだ。まわりの客も私に倣った-何と言っても私は川村みどりの友人なのだ。私の頼むものがクールでないわけがない。たぶん、自分たちがたったいま注文したものがウィスキーなのか、ウォッカなのか、発売されたばかりのビールなのかさえ、わかっていないだろう。
ともあれ、シングルモルトがこれほど登場するミステリーは、ほかにはイアン・ランキンのリーバス警部のシリーズぐらいで、カリラやクラガンモア、ダルモアなど、主人公の好みも悪くないです。
さらに、日本のバー文化のあり様を海外に伝えてくれているのも嬉しいです。少し長くなるけれど、日本のオーセンティックなバーの典型が描かれているので引用しましょう。
エレベーターで二階に上がり、マスターの佐藤さんの奥さんが丁寧に飾り付けた、クチナシを始め、色とりどりの花に囲まれたドアをくぐる。右手に進み、ひとつ段を上ると、ほの暗い明かりに包まれたサクラ材のカウンターの奥に佐藤さんが立っていた。いつもどおり、ボウタイとベストを一分の隙もなく着こなしている。
「ああ、藤原さん」佐藤さんは私たちに気づくと、大きな笑みを浮かべ、頭を下げて柔らかなバリトンで言った。「いらっしゃいませ」
「佐藤さん、お久しぶりです」私は日本語で言った。見回すと、小さな店はほとんど満員だった。「ふたり入れますか」
「ええ、もちろん」佐藤さんはそう答え、カウンターに座った六人の客に丁重に謝りながら、ひとつずつ右にずれてくれるよう頼んだ。一番奥に私とみどりの分の席が空いた。
佐藤さんに礼を言い、他の客に謝って、私たちは席についた。みどりはきょろきょろしながら店内をながめていた。名も知らないものや年代物がほとんどだが、いろんな銘柄のウィスキー瓶がバーの奥の棚だけでなく、店の中の棚や備品の上などにもびっしりと並んでいる。正面の壁にはシュウィン社製の古い自転車に似たエクレクティック・アメリカーナが吊り下げられ、他にも重さ十ポンドはあろうかというダイヤル式の時代物の黒電話や額に入ったケネディ大統領の写真が飾られている。ウィスキーしか出さないというポリシーと対をなすように、佐藤さんはジャズしか流さない。バーの奥に置かれたマランツの真空管ステレオから、歌手兼詩人のカート・エリングの情熱にあふれた渋い声が流れ、低いざわめきやくぐもった笑い声とからみあう。
「ここ……気に入ったわ!」みどりは椅子に腰を下ろすなり英語でささやいた。
「すごいだろ」みどりに喜んでもらえたことが嬉しかった。「佐藤さんは競争社会にうんざりして会社を辞めた元サラリーマンなんだ。ウィスキーとジャズが好きで、こつこつと貯金をして十年前にこの店を始めた。日本で最高のバーだと僕は思ってる」
こんな雰囲気の街場のバー、どなたも一軒はご存じではないでしょうか。
「今夜のお勧めは?」私は尋ねた。佐藤さんは年に四度スコットランド詣でに出かけている。これまでにも、日本ではまず手に入らないモルトウィスキーを幾種類も賞味させてもらった。
「何杯くらい差し上げましょう?」佐藤さんは尋ねた。複数杯と答えると、適当に見繕っていろんなウィスキーを飲ませてくれる。スコットランドのロウランズ地方産の軽いものから始め、最後はヘブリティーズ諸島南端のアイラ島で作られた、ヨードチンキみたいに刺激が強いものへと進む。
「一杯だけかな」私は答えた。みどりを見ると、彼女もうなずいた。
「軽いもの? 強いもの?」
ふたたびみどりの顔を見ると、彼女は答えた。「強いものをお願いします」
佐藤さんが微笑んだ-“強いもの”という答えを期待していたに違いない。何か特別の銘柄をすでに考えていたのだろう。佐藤さんはバーの奥に張られた鏡の前からクリアガラスの瓶を取り、私たちに差し出した。「四十年もののアードベッグです。アイラ島の南岸の蒸留所のものでしてね。こいつはめったに手に入りません。ラベルのない瓶に移してあるのは、この銘柄を知っている人が見たらきっとくすねようとするからです」
一点の曇りもなく磨かれたタンブラーをふたつ、私たちの前に並べる。「ストレートでよろしいですか」初めて訪れたみどりの好みを尋ねる。
「はい」みどりの返事を聞いて、佐藤さんは安心したようにうなずいた。ブロンズ色の液体をふたつのタンブラーに慎重に注ぎ、コルクの栓をもとどおりにする。
「このモルトが特別なところは、バランスのとれたフレーバーです-ふつうなら競い合ってしまったり打ち消しあってしまうフレーバーが見事に調和しています」佐藤さんは低い、いくらか厳粛な声でそう説明してくれた。「ピート、スモーク、ブーケ、シェリー、潮の香り。潜在的な力にこのウィスキー自身が気づくまでに四十年かかりました-ちょうど人間のように。さあ、どうぞお楽しみください」佐藤さんは会釈をし、控えめな物腰でバーの反対端に移動した。
年に四度もスコットランドに旅行できるとは、かなり儲かっているバーみたいです。でも、日本で最高のバーだと思っている、との主人公の言葉には、ちょっと同意しかねます。
盗まれるからウイスキーを移し替えるなんて、あまりにも馬鹿げていて笑ってしまいます。ウイスキーはボトルまで含めて愉しむものですよね。
なによりも、一流のバーテンダーは、ゲストがグラスに口をつけるまえに、問われてもいないのに勿体ぶって主観や薀蓄を語ったりはしません。
もし、モデルとなったバーがあったとしても、さきの場面のような無粋な接客はしておらず、会話を埋めるための作家の脚色でしょうが。
バーテンダーを辞めたらなんとでもいえるので気楽ですな。ふっ。
なお、本作は椎名桔平、長谷川京子、そして、なんとゲイリー・オールドマンのキャスティングで映画化され、まもなく公開されます。
http://rain-fall.jp/
ゲイリーの出演、監督作のほとんどを観ているファンとしては、期待と不安のあいだで悶々としつつ公開を待っています。
シリーズ・リスト
「雨の牙」 ヴィレッジブックス 2002
「雨の影」 ヴィレッジブックス 2004
「雨の罠」 ヴィレッジブックス 2006
「雨の掟」 ヴィレッジブックス 2007



