ウスケバ・ロゴ ウスケバ・ロゴ ウイスキー造りに欠かすことの出来ない「水」そして「樹」。自然の力が生み出す「生命の水」。

2009年06月30日

堕ちたきらめき




















 ハンフリー・ボガード主演の映画、「キー・ラーゴ」の舞台にもなった、フロリダ半島からメキシコ湾に連なる島々、キー・ウェストのひとつ、タンゴ・キーの警察の女刑事、アリーン・スコットが主人公のシリーズの4作目です。
 今回はウイスキーではなく、気にいったバーの描写があったので取り上げました。

 レスターズ・バーはもっぱら地元の連中のたまり場で、観光客が眼をつけることはめったになかった。その点だけをとってもこの店はユニークだった。だがここは島じゅうでいちばん安くて冷たい生ビールを出す店でもあり、料理はうまく、一種のタイム・ワープのなかに存在していて、一九六〇年以降のものは何ひとつ置いてなかった。
 カウンターの前には、このバーがソーダ・ファウンデンだったころからの回転スツールがずらりと並んでいた。壁に貼られた映画のポスターは、レスター・シニアのヒッチコック好きを物語っていた。カウンターの片端には大きなガラス瓶があり、ビーフジャーキーや酢漬けの固ゆで卵が入っていた。キンケイドはここへ来るたびに、ティーンエイジャーにもどったような気がした。


 アメリカのテレビドラマを幼いころによく観ていたので、アメリカ文化の象徴だったダイナーとかソーダ・ファウンテンとかに憧れました。
 店内でベンチシートに腰かけてソーダやアイスクリームを楽しんでいるドラマのなかの子供が、せいぜい駄菓子屋で買い食いするぐらいだったぼくには、とても眩しく映ったものでした。ノーマン・ロックウェルが描いた幸福で極彩色の世界そのものですね。

 それから、エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」、邦題は「夜更かしをする人たち」も、ぼくにとってはバーの原風景なんです。モチーフはバーではなくてコーヒーショップだけれど、作品から伝わってくる雰囲気はまぎれもなくバーでしょう。


















シリーズ・リスト

「イヴのすべて」 創元推理文庫 1988
「針のたわむれ」 創元推理文庫 1988
「うつろな月」 創元推理文庫 1989
「堕ちたきらめき」 創元推理文庫 1996  

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2009年06月27日

騎手ブレインの失われた栄光




















 弱冠22歳でグランド・ナショナルを制し、美しい婚約者にも恵まれたジョージ・ブレイン。それはまさに人生の絶頂だった。14年後、彼は酒と女と八百長に溺れ、当時の面影はすっかり失われていた。そんなブレインの前に忽然と現われた駿馬ヴァンテージ。騎手の本能が騒ぎ、再び誇りと自信、勝利への執念がよみがえってくるのを感じた時……。
裏表紙ストーリー紹介より

 競走馬と一緒に育った作者らしく、レースの場面の迫力はディック・フランシスにも劣りません。端正な訳文もいいです。とはいえ、冗長で読むのに苦労しました。プロローグの独白がどうエンディングに結びつくのかも分からずじまいで、フランシスの汗ばんで息つくような余韻は味わえませんでした。

「ジョージ」声がそっと呼ぶ。わたしの右手のドアからキルカノンがあらわれ、白い上着のウェイターをすばやくよけながら近づいてきて、指の長い、しみのういた手をさし出す。
「こんばんは」わたしは立ちあがる。
 淡いブルーの眼が笑いながらわたしの眼をのぞき込む。握った手はとても温かい。「いい考えがある」手をわたしの二の腕に移す。「こっちでもっと品よく新年を迎えよう。わたしと一緒に。特別なブランデーがあるんだ-一九一四年物だぞ-信じられるかね? 無骨な若造のチャールズにはわかるまい。きみとわたしにはわかる」
「ウィドウズ・ヴィンテージですか」ヒューッと口笛を吹く。「わたしは初めてです」
「ふむ」彼はドアを開き、一歩退いてわたしを通す。「ばかげたことなんだが、それはわたしが生まれた年でね。先見の明のある気前のいい名づけ親が、樽をふたつほどくれたんだ。一九五四年にデミジョンに詰めて、去年新しいボトルに詰め替えたばかりだ。選択は三つしかない。一、チャールズにやる。パワーズのブレンドのほうがよろこぶだろう。二、センスよりも金を持っただれかに譲る。三……」ボトルを明かりのほうへ掲げる。「呑んでしまう。このような向こう見ずにふさわしく、存分に味わって。かけてくれ、ジョージ、さあ」


 同じ年代ものなら、ぼくもコニャックよりパワーズのほうを喜んで選びますね。
 かのサミュエル・ジョンソンは、「クラレットは子供の、ポートは大人の酒。しかし、英雄たらんとするなら、すべからくブランデーを飲むべし」とのたもうたけれど、英雄でもなんでもないし。
 そもそも、ウィドウズ・ヴィンテージって、いったいなんでしょうか。

 アイルランド本国でもっとも人気の高いウイスキーがパワーズです。ネックラベルに描かれた3羽のツバメから、スリー・スワローズ、の愛称で親しまれています。
 7年にわたり熟成させたポットスティル・ウイスキーを70パーセントと高い割合でブレンドした、まさしくパワーに満ちたフルボディのブレンディッド・ウイスキーで、ジム・マーレー氏は、アードベッグなどとともに愛すべきウイスキーのひとつに挙げ、マイケル・ジャクソン氏は、「モルティ。ボディが豊かでバランスがとれている」と評しています。
 ただ、ボトルラベルのデザインが変わったころから以前の逞しさを失ってしまい、また、このところバーで見かける機会も少なくなりました。

 ジョンズ・レーン蒸留所は、ダブリンのリフィー川沿いに、1791年にジェイムズ・パワーが建設しました。1796年の説もあります。
 蒸留所は才覚に恵まれた息子のジョンによって、大いに業績を伸ばしました。19世紀末の英国のウイスキーの著述家、アルフレッド・バーナードも、蒸留所の大規模で近代的な設備に感心しています。
 成功したジョンは、のちにナイトの称号を授かり、ダブリンの長官にも任命されました。
 しかし、アイリッシュ・ウイスキーの凋落を追うように、ジョンズ・レーン蒸留所も1976年に操業を終え、パワーズの生産はミドルトンに移されています。

 ちなみに、ヨーロッパのツバメは、遠くはアフリカの南部で越冬し、繁殖のこの季節、数千キロを旅します。18世紀までは、小柄なツバメが渡鳥であるとは学者でさえ考えが及ばず、水中で冬眠するものと広く信じられていました。
 さきのサミュエル・ジョンソンも、

ツバメは確かに冬のあいだ眠っている。
まるくなってかたまり、それからその
かたまりの全部の鳥が水中に身を投げ出し
川底でじっとしている。

鳥の生活 マイケル・ブライト 著 丸武志 訳 平凡社

と、さも見てきたかのごとく詠っています。

 また、ツバメがトレードマークの酒は、ほかにコニャックのヘネシー、ブレンディッド・スコッチのジェームズ・マーチンなどがあります。





















 アイルランドとツバメといえば、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」を思い出します。本を開くたびに涙ぐんでいた純真な少年も、いまではすっかり絵のなかのドリアン・グレイと化してしまいましたが。  

Posted by THE WHISKEY at 16:00Comments(0)TrackBack(0)パワーズ

2009年06月24日

友と別れた冬




















 家出した妻の居所を探りだしてくれ。十五年ぶりに現れた旧友のビリーが、ニックに調査の依頼を持ちこんだ。彼はビリーの妻に複数の浮気相手がいた事実を突きとめ、その一人と会った。が、彼女が立ち寄った形跡はなく、しかも男から二十万ドルを持ち逃げしていたことも判明した。ニックは彼女の行方を追うが、その直前、友人の記者が何者かに殺されるという事件が……

裏表紙ストーリー紹介より

 現代のハードボイルド小説を代表するシリーズのひとつが、ジョージ・P・ペレケーノスのディミトリ・カラスが主人公のD.Cカルテット4部作と、ニック・ステファノスが主人公の3部作の、いわゆる、ワシントン・サーガです。
 とくに、カラスものの第1作の「俺たちの日」は、喧しい日本の読者も唸らせ、ファルコン賞を授賞しています。

 フィル・セイラーが<スポット>の持ち主だった。午後の二、三時間は店に現われ、閉店時間にも帳簿つけに顔を出すのだろう。短躯で物腰の柔らかな中年男、ワイヤーリムの眼鏡-とうてい特別区の元警官とは思えぬ風采のセイラーは、サウス・テキサスの産で、数年前に退職してこの店を開いた。どうやらここで生計を立て、それを楽しんでいるらしい。まぎれもなく彼はバーボンとダイエット・コークの忌まわしいちゃんぽんを好み、しかも店のオーナーとしては解せない話だが、備えつけの安バーボン、マッティングリー・アンド・ムーアのコーク割りがお気に入りだった。

「硝煙に消える」の後日、私立探偵のライセンスを得たニックでしたが、そんなに都合よく仕事にありつけるはずもなく、行きつけのバーの「スポット」でバーテンダーとして雇われます。
 シリーズの掉尾を飾る「生への帰還」では、カラスもニックの紹介で「スポット」で働くことになります。

 ロスの「ヴィクターズ」、ニューヨークの「アームストロングの店」、シカゴの「ゴールデン・グロー」、そして、「スポット」と同じくワシントンDCにある「マックの店」など、ミステリーには印象的なバーが何軒も登場します。ファンなら、どの店も一度は行ってみたいと思いますよね。

 ハッピーと呼ばれる客がいた。ひとつにそれは、彼が笑う能力に欠けていることを皮肉った名前なのだと思う。海草もどきの灰色の髪、血管の浮きだした平べったい鼻、そして締まりのない垂れ目の持ち主だった。縫い目に白いステッチのついた、赤ん坊の糞みたいな茶色のスポーツジャケットを好んで着ていた。生地が発泡スチロールでできているみたいなジャケットだ。自分のグラスに片手を力なく巻きつけたまま、カウンターで眠りこけてしまうこともよくあった。ある日の午後、わたしがマンハッタンを出した直後に、彼は口いっぱいにふくんだその酒をカウンター越しに吐き散らした。わたしは彼のほうを見た。
「おれが頼んだのはマンハッタンだぜ」彼は大声でぼやいた。
 言い訳はたったひとつしか思いつかなかった。「すみません。スィート・ヴェルモットの代わりにドライ・ヴェルモットを使うべきでした」
「いいか」彼は獰猛な目つきでこっちを睨み、一日六十本のチェスターフィールドにやられた声で言った。「おれがマンハッタンを注文したときは、どんな種類のヴェルモットもいらない、聞いてるか? マティーニ・グラスにバーボンを一オンス注いで、そこにくそったれチェリーを落とすんだ。わかったか?」
 わたしは了解のしるしに頷いた。


 でも、こんな物騒な客が常連の店は遠慮させてもらいます。

 1876年、J・G・マッティングリー&サンやマリオン・カウンティ蒸留所のオーナーだったJ・G・マッティングリーが、トーマス・S・ムーアとともに、バーズタウンの近郊にベル・オブ・ネルソン蒸留所を建設しました。そして、ベル・オブ・ネルソンとこのマッティングリー&ムーアを発売します。
 マッティングリーは1881年に蒸留所の権利をムーアに譲り、1900年に業界を引退しました。そして、故郷のセント・マリーに戻ると、1910年に68歳で他界しています。
 ムーアは、ジョン・セムズとR・H・エデレンを新たなパートナーに迎えいれて、蒸留所の経営を続けました。ジョージ・E・メドレーが関わっていた時期もあったようです。
 しかし、蒸留所は1916年に休業に追いこまれ、ルイヴィルのハーマン・ブラザース社に売却されました。設備が老朽化していたために、蒸留所は1920年代に閉鎖されています。
 禁酒法が廃止されたあと、マッティングリー&ムーアのライセンスはシーグラム社に移り、1937年にジェファーソン郡のポール・ジョーンズ、第二次世界大戦後は、1974年までハリソン郡のオールド・ルイス・ハンター、以降はインディアナ州のローレンスバーグと、系列の蒸留所で生産されていましたが、1991年にアメリカン・ブランズ社がシーグラム社から買収した、7つのブランドのなかに含まれていたらしく、現在は、1986年にアメリカン・ブランズ社の傘下に下った、フランクフォート・ディスティリング社が所有しています。つまり、オールド・グランダッドとラインは同じと考えられます。

 ブランドネームにかけた、マイルド・アンド・メロウ、のキャッチコピーで親しまれ、日本でも戦後まもなくから出回っていて、それなりにポピュラーなバーボンでした。ただ、最近は輸入が途絶えています。

シリーズ・リスト

「硝煙に消える」 ハヤカワ文庫 1997
「友と別れた冬」 ハヤカワ文庫 1998
「俺たちの日」 ハヤカワ文庫 1998
「愚か者の誇り」 ハヤカワ文庫 1999
「明日への契り」 ハヤカワ文庫 1999
「生への帰還」 ハヤカワ文庫 2000  

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2009年06月21日

彼女は水草に抱かれ




















 女性弁護士キャスは、旧友から依頼され、アンバーという女性が代理母となる件を扱うことになる。そのアンバーが子供の引き渡し直後に決意を翻し、子供を連れて姿を消した。ところが、怒りに震えるキャスのもとに、アンバーが遺体で発見されたという知らせが届く。マスコミの取材合戦が続くなか、キャスは子供の売買を仲介する悪徳弁護士と見なされていく。汚名を晴らし、消えた子供を探すため、キャスは事実を追うが……
裏表紙ストーリー紹介より

 ニューヨークの女性弁護士、キャス・ジェイムスンのシリーズの第3作です。

 リトル・フレッシュ・キル。その名前は、長い草をかきわけ、ずぶずぶとめりこむ足跡の地面に目をこらしながら、のろのろと歩いているときに、わたしの頭のなかでころがりまわった。自分が何をさがしているのかと考えると、全身を戦慄が走った。
 わたしは捜索隊の一員だった。赤いチェックの狩猟用ジャケットを着た男たち、青いウィンドブレーカーを着た警官たち、革ジャンを着た十代の少年たちがいた。大股で歩く男たちの後ろにつづく数人の女たちに混じり、まるで軍隊を追って移動する売春婦のような気分だった。
 スタテン島はキルが、つまり狭い入り江がいっぱいある。かつては、木造船を操り、島を迂回してにぎやかなマンハッタンの港へ向かう船長たちを手こずらせるものだった。キルという言葉の語源は、水路を意味するオランダ語だ。殺しなどという邪悪な意味はないと、わたしの横を歩いているスタテン島の老人がおしえてくれた。いまはもうそういう船は姿を消し、わたしたちが重い足取りで歩いている沼地は、コン・エディスン工場と下水処理場の埋立地にはさまれている。
 環境保護主義者たちは、こういう場所を“ウェットランズ”と呼ぶようになった。まさに適切な名称だ。わたしの足は、高く生い茂った葦の下に隠れた冷たい水に、くるぶしまで浸かっているからだ。だが、わたしに言わせれば、ここはただの沼沢地だ。秘密に満ちている。沼は人間を泥土のなかに吸いこみ、呑みこまれた人間は二度と姿をあらわさない。茶色と灰色がひろがる、人を寄せつけない土地だ。
 遺体を捨てるのには申し分のない場所だ。


 マンハッタンの沖合に浮かぶスタテンアイランドで、行方不明になった依頼人の捜索隊に加わるキャスの独白で物語は始まります。残酷ですが美しいプロローグです。

 本国での発表順に準じて邦訳される幸福なミステリーは、それほど多くありません。おおむね、シリーズのなかの話題作や受賞作で市場の様子を見て、反応が良ければほかの作品を前後しながら刊行するパターンで、このシリーズも、MWA賞にノミネートされた、第4作の「いま一度の賭け」が最初に日本に紹介されました。
 でも、1作目からとはいわないまでも、せめて本作をさきに出してほしかったと思います。
 ネタばれになるので詳しくは明かせないけれど、「博物館入りしてもおかしくないような」、「奇跡のようなおいしい」シングルモルトで依頼人の死に落ちこむキャスを慰める、元恋人に対する読者の印象が、「いま一度の賭け」で劇的に変わってしまうからで、できれば無用な先入観なしに接したかったですね。

 わたしはソファの背にもたれ、旧友を見つめた。マーラはインドのシルクのパジャマを着ていた。爪先の反ったペルシャ風のスリッパを、幅のひろい小さな足にはいていた。詰め物が多すぎる長椅子に座り、煙草をふかしているマーラは、『不思議の国のアリス』に登場する芋虫に似ていた。
「言い訳のしすぎじゃない?」グラスを唇にもちあげると、スコッチが舌にふれた。カティ・サークだ。いい酒だが、最高ではない。それから、マーラがジンを好んでいること、スコッチの神秘を理解していると期待してはいけないことを思い出した。


 とにかく、女性ならではの感性と鋭い視線に、男として、ややもすればたじろぎそうになる、まぎれもないハードボイルド小説です。

 ところで、冒頭、マンハッタンの沖合に浮かぶスタテンアイランドで、行方不明になった依頼人の捜索隊に加わっていたキャスは、発見された死体を目にして、スタテン島のオフィーリア、と独白します。おそらく、ミレイの「オフィーリア」を思い浮かべたのでしょう。ぼくも読んでいて同じ印象を抱きました。





















 その「オフィーリア」が収蔵されているロンドンのテート・ギャラリーの展示室で幕を開けるのが、毎回、実在する風変わりなパブの店名がタイトルにつけられた、マーサ・グライムズのジェリー警視シリーズの第12作、「『乗ってきた馬』亭の再会」です。





















 アメリカでは人気の高いシリーズも、英国での評判はあまり芳しくありません。彼らにしてみれば、アメリカの作家がステレオタイプのイメージで英国を描いているのが鼻白むみたい。その気持ちは分からないでもないし、ミステリーとしても本格派とはいい難い。でも、ジュリーの優しくてどこか寂しげな人となりと、部下のウィギンズ、仲間のメルローズ・プラントとプラントの叔母のレディ・アガサ、隣人のミセス・ワッサーマンとキャロル・アンら魅力的なキャラクター、雨と霧にくすんだ風景とスノビッシュで滑稽な人びと、それらが影絵のように柔らかな雰囲気を醸し出していて、ぼくは好きなシリーズです。

シリーズ・リスト

「彼女は水草に抱かれ」 ハヤカワ文庫 2001
「いま一度の賭け」 ハヤカワ文庫 1998

シリーズ・リスト

「禍いの荷を負う男」亭の殺人 文春文庫 1985
「化かされた古狐亭」の憂鬱 文春文庫 1985
「鎮痛磁気ネックレス」亭の明察 文春文庫 1986
「悶える者を救え」亭の復讐 文春文庫 1987
「エルサレム」亭の静かな対決 文春文庫 1988
「跳ね鹿」亭のひそかな誘惑 文春文庫 1989
「独り残った先駆け馬丁」亭の密会 文春文庫 1990
「五つの鐘と貝殻骨」亭の奇縁 文春文庫 1991
「古き沈黙」亭のさても面妖 文春文庫 1992
「老いぼれ腰抜け」亭の純情 文春文庫 1993
「酔いどれ家鴨」亭のかくも長き煩悶 文春文庫 1994
「乗ってきた馬」亭の再会 文春文庫 1996
「レインボウズ・エンド」亭の大いなる幻影 文春文庫 1998  

Posted by THE WHISKEY at 14:00Comments(0)TrackBack(0)カティーサーク

2009年06月18日

手負いの森




















 その老人は、むせかえるように暑い温室で私を待っていた。私立探偵の私は、暗黒街のボスである老人から、過激な環境保護グループの一員となり家出した孫娘を連れ戻すよう依頼されたのだ。やがて私は、孫娘の居所と彼女が密会する若者が住む小屋を探りあてた。だがその晩、小屋は焼け落ち、さらに私の身辺にも卑劣な罠が……
裏表紙ストーリー紹介より

 親権を奪われた父親が飛び降り自殺しようとするのを説得するオープニングから、ウィルソン・ピケットの「ダンス天国」の合唱のなかで迎えるラストまで、ホンキートンク・ピアノのエイト・ビートのリフを聴いているかのような、ちょっと調子外れでストレートなハードボイルド小説です。

 新人作家とはいえ、ミステリーに長らく親しんだ四十男が満を持して書き上げただけに、キャラクターの造形といい、プロットの確かさといい、なかなか達者な筆遣いで、とくに、「シングルモルト・ウィスキーを愛しすぎたために」社会的な地位を失った元編集者ら、主人公の調査を手伝うホームレスの老人たちの言動は噴飯ものです。皆さまがたもご自愛くださいませ。
 ちなみに、冗談みたいなペンネームは本名だそうです。

 翌日、夜明けのずっと前に、私はエイモス・ジョンソンとビュフォード・パターソンの間にはさまって、ビュフォードのがたがたのピックアップ・トラックに乗っていた。車はスノクァルミー峠をあえぎながら登っている。
 エイモスとビュフォードがやりとりするオールド・クロウの瓶が私の顔の前を行ったり来たりした。三回に一回ぐらいはどちらかが気がついて、私にも一口どうかと礼儀正しく勧めた。私はそのたびに断った。
 琥珀色のバーボン・ウィスキーの芳香には興味をそそられ、大人の仲間入りをしてみたいという強烈な欲求を覚えもしたが、エイモスもビュフォードも飲みながら噛み煙草をくちゃくちゃと噛んでいた。瓶がエイモスの膝の上で小休止しているときに見ると、ウィンターグリーン・オイルで香りをつけた噛み煙草のかすが、ウィスキーの表面にスペイン無敵艦隊のようにゆったりと浮かんでいるのが目についた。その煙草を歯で漉して飲むのかと思うと、とても手が出なかった。


 ジェイムズ・クロウは、1789年にスコットランドで生まれました。
 エディンバラで医学を修め、1820年にアメリカに渡り、兄弟とともに事業を始めます。しかし、失敗して破産の憂目に遭い、1823年にフランクフォートへ流浪してきたときに、ウィリス・フィールドと出会いました。
 フィールドはクロウの化学の知識に着目して、ウッドフォード郡のグリアー・クリークにあった自分の蒸留所で雇うことにします。
 クロウは、従来の経験だけに頼ったウイスキー造りを、比重計などを導入して科学的な立場で見直し、1835年にサワー・マッシュ製法を完成させたほか、次つぎと業界に変革をもたらします。クロウのウイスキーがルビー・リカーと喩えられたように、樽のファイアリングを行なったのも、彼が最初といわれています。
 フィールドの蒸留所で10年あまり働いたあと、オールド・オスカー・ペッパー蒸留所やジョンソン蒸留所も手がけ、1856年に67歳で亡くなるまで、バーボンの品質の向上に大いに尽力しました。
 彼が確立した多くの技術は、オスカー・ペッパー、アンダーソン・ジョンソン、その息子のヴァン・ジョンソン、ウィリアム・ミッチェルらに受け継がれ、1860年、オスカー・ペッパーがミルヴィル近郊のグレン・クリークに新しい蒸留所を建設したさい、クロウへの敬意をこめてオールド・クロウ蒸留所と名づけます。
 シンボルマークのカラスは、もちろん、ジェイムズ・クロウの名前をもじったもので、欧米では、カラスは「長寿」の象徴とされています。
 蒸留所のウイスキーはたちまち評判を呼び、南北戦争で北軍を率いて勝利に導き、第18代アメリカ大統領に栄達した、ユリシス・S・グラント将軍も愛飲したと伝えられています。
 オスカーはまもなく亡くなり、オールド・クロウ蒸留所は息子のジェイムズ・E・ペッパーが相続しました。
 1870年代にフランクフォートのW・A・ゲインズ商会に売却され、W・A・ゲインズ商会は、禁酒法の影響で1922年に解散したものの、オールド・クロウのボトルラベルには、いまもW・A・ゲインズ商会の社名が記されています。
 禁酒法が廃止された1935年、ナショナル・ディスティラーズ社の傘下のアメリカン・メディセナル・スピリッツ、AMS社が蒸留所を入手し、改修して操業を再開します。
 1987年にアメリカン・ブランズ社にライセンスは移り、現在はジム・ビーム・ブランズ社が生産しており、旧オールド・クロウ蒸留所は、ウェアハウスとして使用されています。


















 バーボンは、やっぱり長くても8年までのボンデッドに限りますよね。  

Posted by THE WHISKEY at 11:00Comments(0)TrackBack(0)オールド・クロウ

2009年06月15日

感傷の終り
























 私立探偵ジョン・タナーに許される時間はそう長くなかった。サンフランシスコでも指折りの大実業家マックス・コトルでさえ、癌に打ち勝ち、臨終の時を引き伸ばすことはできないのだ。生きている間にもう一度、息子のカールと会いたい、会って誤解を解きたい……実業界で強烈な個性を発揮してのしあがってきたコトルの、最後のセンチメンタルな願いだった。
 カール・コトルが姿を消して十年がたっていた。父親への反発から過激な学生運動へ走り、一人の少女の悲惨な死を招いた放火事件の首謀者として警察に追われる身だった。カナダに逃げたとも、最近街に舞い戻ったとも、噂は流れていたが、いかんせん十年の歳月が彼の足跡を希薄にしていた。そして、莫大な遺産を継ぐ相続人捜しに動揺するコトル家周辺の人々の干渉……タナーの捜査の前には、多くの困難が横たわっていた。
 そんな時、思いがけずマックス・コトルの突然の死が報じられた。間に合わなかった-努力はすべて徒労に終わったのか……? だが、この衝撃的なニュースの陰に隠れて、コトル家の内部が不気味な動きを示しはじめていたことを、タナーは知らなかった!
裏表紙ストーリー紹介より

 サム・スペイド、フィリップ・マーロウ、リュウ・アーチャーの衣鉢を継ぐべく、1970年代から80年代にかけて、大勢の私立探偵が名乗りを上げました。しかし、今世紀まで生き長らえた連中はそう何人もいません。
 すでに取り上げた、ビル・プロンジーニの名無しの探偵、ロバート・B・パーカーのスペンサー、ローレンス・ブロックのマット・スカダーのほかには、マイクル・Z・リューインのアルバート・サムスンとスティーヴン・グリーンリーフのジョン・タナーぐらいでしょうか。
 ウェスタン小説のスペンサーは論外として、彼らのなかで、おそらくいちばん殴られ、撃たれているのがタナーです。そういった意味ではもっともハードボイルドな主人公ですね。
 第12作の「過去の傷口」なんて、本作にも登場する盟友のチャーリー・スリートともども撃たれて暗転するという、読者を檻のなかの熊みたいな気分にさせるエンディングでした。

 私はドアに歩みより、無造作にドアをあけた。それは、私がタフだったからだ。私は、傷つけられるはずがないから、何も怖れるものはない。いやそれとも、それほどひどく傷つけられるはずがないから、こわいものが何もないのかもしれない。ともかく、ドアをあけはなって、相手を見た。さっき私が夢見ていた女の顔がそこにあった。
 私は彼女を中へ招じ入れ、くつろいだ身なりとか、取り散らかした部屋とか、その他何かと彼女の気にさわりそうなものについて言いわけをした。彼女は面白そうに私を見た。
「酔ってるんですの、タナーさん?」と、彼女はちゃめっぽくきいた。そういう彼女も酔っているか、少なくとも何か異常なことに出会って、心が騒いでいる様子だった。「酔ってるんでは、力になってもらえないわね」と、彼女はいった。
「いや、いや、力になれますよ」と、私は酔っぱらいの口調でいった。
 彼女の目はぐるぐると動いて、何か頼りになるものを探していた。まず私を、それから室内を。何もないと知って、出ていきかけた。「間違ってました」と、彼女はいった。「ごめんなさい。お邪魔すべきではありませんでした」
 彼女に追いつく前にドアをあけたが、私が彼女の腕に手をかけたときは、まだ室内にいた。「行かないで。ぼくなら大丈夫。ぼくはカクテルを飲んでいて、それが合わなかったんです。ホワイト・ラベルに自己憐憫をまぜたやつです。この組み合わせはきくんですよ。でも、さます方法がないわけじゃない。コーヒーをいれましょう。おすわりください。ちょっと服を着てきます。お願いです」


 死期の迫った大富豪の依頼人と行方不明の一人息子、若くて美しい継母。ダイムノヴェルの時代からありがちなシチュエーションですが、社会派で骨太なテーマが多いシリーズだけに、世相を反映させつつ最後まで飽きさせません。
 でも、デュワーズの水割りかハイボールかを、ホワイト・ラベルに自己憐憫をまぜたやつ、と女性に向かってぬけぬけと言うのは、タフガイとしてはちょっとみっともないです。

シリーズ・リスト

「致命傷」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1982
「感傷の終り」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1982
「共犯証言」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1983
「探偵の帰郷」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1985
「無実の領域」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1987
「深夜の囁き」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1989
「匿名原稿」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1992
「血の痕跡」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1994
「熱い十字架」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1995
「偽りの契り」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1996
「欲望の爪痕」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1998
「過去の傷口」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1999
「憎悪の果実」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 2001
「最終章」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 2002  

Posted by THE WHISKEY at 10:00Comments(0)TrackBack(0)デュワーズ

2009年06月12日

聖なる酒場の挽歌



















 十年前の夏……この当時を思い出す都度、スカダーの脳裏には二人の飲み友達のことが蘇ってくる。裏帳簿を盗まれた酒場の店主と、女房殺害の嫌疑をかけられたセールスマン。彼らを窮境から救うべくスカダーは調査にのりだした。が、事件は予想外に奥深かった!

裏表紙ストーリー紹介より

 ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズの第6作で、二見文庫のザ・ミステリ・コレクションの最初の一冊として刊行されました。
 当時のキャッチ・コピーが「バーボン片手にミステリ読もう」で、たしかに、メーカーズ・マーク、ワイルド・ターキー、オールド・フォレスター、ジャック・ダニエル、アーリー・タイムズと、いつにもましてスカダーは多くのバーボンを飲んでいます。たぶん、もっともバーボンのよく出てくるミステリーでしょう。

 モリシーの店は朝の九時か十時までやっていた。ニューヨーク市の条令で決められた酒場の閉店時間は午前四時である。土曜日の夜はそれよりも一時間早い。しかしモリシーの店はそもそももぐり酒場なので、そういった条令に縛られることもないのだった。場所は十一番街と十二番街のあいだの五十一丁目の通りに面して、四階建てのレンガ造りの建物が並ぶ中の二階にあった。そのブロックの建物のほぼ三分の一は廃屋だった。窓は板が打ちつけられているかガラスが割れたままになっており、出入口のいくつかはコンクリート・ブロックで閉鎖されていた。
 モリシー三兄弟はそんな中の建物をひとつ所有していたが、それほど高い買いものではなかっただろう。彼らは三階と四階に住み、一階をアイルランド演劇のアマチュア劇団に貸し、二階で夜遅くからビールやウィスキーを売っているのだった。彼らは二階の中の仕切りを全部取り払い、ひとつの広いスペースにしていた。そして壁の一面をレンガの地肌が見えるまで削り、松材の床はよく磨いてウレタン加工し、柔らかい照明をつけ、壁は額に入れたアイルランド国営航空のポスターと、ピアースの一九一六年のアイルランド共和国宣言のコピー-アイルランド人は神と祖先の名において……-で飾っていた。ひとつの壁沿いにバーがあり、寄せ木細工のテーブル・トップの四角いテーブルが二十か三十あった。
 私たちはふたつのテーブルに肩をぶつけ合って坐っていた。スキップ・ディヴォー、アームストロングの店の夜のバーテンダーのビリー・キーガン、ボビー・ラズランダー、眠そうな眼をした赤毛のヘレンという名の、その夜のボビーのガールフレンド。西四十丁目界隈のイタリア料理店のバーテンダーのエディ・グリロという男、CBSテレビで音響技師か何かをやっているヴィンスという男。
 私はバーボンを飲んでいた。ジャック・ダニエルかアーリー・タイムズかだったにちがいない。というのもモリシーの店にはそのふたつしか置いていなかったから。ウィスキーはほかにスコッチが三種類か四種類とカナディアン・クラブで、ジンとウォッカはそれぞれ一種類だけだった。ビールは二銘柄、バドワイザーとハイネケン。コニャックがひとつと妙なコーディアルが二種類。カルーアもあったと思う。あの年はブラック・ロシアンが流行っていたから。アイリッシュ・ウイスキーが三銘柄、ブッシュミルズにジェイムスンにパワーズというやつ。それらを注文する者は誰もいなかったように思う。それらはモリシー兄弟自身のお気に入りだった。アイルランドのビール、少なくともギネスぐらいは置いてあっても不思議はないのだが、私は一度ティム・パット・モリシーが、壜詰めのギネスはとても飲めた代物ではないと言うのを聞いたことがある。ギネスはこくのある生を大西洋の向こう側で飲むものなのだそうだ。


 スカダーが飲み仲間と立ち寄ったバーに強盗が押し入り、売上げ金が奪われます。数日後、バーに居合わせた男の妻が殺害され、さらに、同席していた男たちが経営しているバーの裏帳簿が盗まれます。
 すべての調査を依頼されたスカダーは、それぞれの事件の核心に一歩ずつ迫っていきます。

「バーボンって下品なのよ」と彼女は言った。「わたしの言う意味、わかる?」
「私はバーボンは紳士の飲みものだと思っていたがね」
「バーボンって下品になるのが好きな紳士の飲みものなのよ。スコッチはヴェストとネクタイと進学予備校。バーボンは自分の中の獣を外に出したがっている、自分の卑しさを見せたがっている愛すべき男たちの飲みものなのよ。暑い夜にじっとしてて、汗なんかかいても気にならないっていうのがバーボンなのよ」
 誰も汗はかいていなかった。私と彼女は彼女のアパートメントにいた。玄関間と台所よりも一フィートほど床が低くなっている居間の長椅子に坐っていた。彼女のアパートメントがあるアール・デコ風の建物は、五十七丁目の通りに面して九番街からほんの数軒西にはいったところにあった。角の酒屋で買ってきたメイカーズ・マークが、ガラスと錬鉄製のコーヒー・テーブルの上にのっていた。彼女のアパートメントのエアコンは、私のよりも静かでずっと性能もよかった。私たちは氷を入れずにロック・グラスで飲んでいた。


 大都会の市井の群像を情感豊かに描いているシリーズのなかでも、この「聖なる酒場の挽歌」は、色褪せた古いスナップ写真を眺めているかのようなノスタルジックな雰囲気に満ちていて、ファンのあいだで評価の高い作品です。もちろん、ぼくも好きですし、今回もウイスキーの登場するページを確かめるつもりで目を通しただけなのに、結局、時間を忘れて読み耽ってしまいました。

 私はバーのほうへ行った。彼女はひとりぼっちでバーの隅に座っていた。眼のまえのグラスの中をのぞき込んでいた。キャロリン・チータム。彼女とは彼女の家に行って以来会っていなかった。
 彼女に何か声をかけたものかどうか迷っていると、彼女が顔を起こし、私の眼を見た。彼女の顔は苦痛にこわばっていた。私がわかるまでに彼女は一、二度まばたきをしなければならなかった。そして彼女の頬の筋肉がぴくっとひきつったかと思うと、眼尻に涙が溢れ出した。彼女は手の甲でそれを拭った。まえからすでに泣いていたようだった。黒いマスカラのついたティシューがバーの上にまるめられていたから。
「わたしのバーボン仲間」と彼女は言った。「ビリー、このひとは紳士よ。このわたしの紳士の友達においしいバーボンを一杯あげてくれない?」
 ビリーは私を見た。私はうなずいた。彼はバーボンを数オンスと、ブラック・コーヒーをいれたマグを持ってきた。
「わたし、あなたのことを紳士の友達なんて言ったけど」とキャロリン・チータムは言った。「でもそのことに何か意味があるわけじゃないわ」彼女は酔っぱらいがことばを丁寧に発音しようとする話し方で言った。「あなたは紳士で友達なのよ。紳士の友達じゃない。わたしの紳士の友達は紳士でも友達でもないもの」
 私はバーボンを少し飲み、少しコーヒーにいれた。
「ビリー」と彼女は言った。「どうしてミスター・スカダーが紳士だかわかる?」
「彼はご婦人のまえではいつも帽子をとるから」
「彼はバーボン党だからよ」と彼女は言った。
「それが彼女を紳士にしているのかね、ええ、キャロリン?」
「それが彼をスコッチを飲む偽善者のくそったれからほど遠い人間にしてるのよ」
 彼女は声を荒げたわけではなかったが、その言い方にはほかの客の会話を中断させるぐらいの棘があった。店のテーブルは三つか四つほど埋まっていただけだったが、それぞれみな同時に話すのをやめた。しばらくテープの音だけが流れた。私にもわかる曲だった。ブランデンブルグ協奏曲の中の一曲だった。それは今では私にもわかるくらい店でよくかかる曲だった。
 ビリーが言った。「アイリッシュ・ウイスキーを飲むやつは、キャロリン、なんになるんだね?」
「アイルランド人」と彼女は言った。
「なるほど」
「わたしもバーボン党なのよ」と彼女は言った。そして自分のグラスをぐいとまえに押し出した。「ちくしょう、わたしはレディよ」
 ビリーは彼女を見た。そして私を見た。私は黙ってうなずいた。ビリーは肩をすくめて彼女に注いだ。
「私につけといてくれ」と私は言った。
「ありがとう」と彼女は言った。「ありがとう、マシュウ」そこでまた眼に涙が溢れた。彼女はハンドバッグから新しいティシューを取り出した。


 妻殺しの嫌疑をかけられた依頼人には、キャロリン・チータムという愛人がいました。スカダーは成り行きで彼女とベッドをともにします。
 その一夜の結びつきゆえに、ラストでスカダーは哀しくも非情な行動をとるのでした。

 スカダーものを紹介するときはいつも引用が長くなってしまいます。呑んだくれの琴線にふれる描写が多いからでしょうね。
 基本的に一冊の本を記事にするのは一回限りと決めているのですが、本作については印象的な場面がほかにもあるので、もう一度か二度、取り上げるつもりです。

シリーズ・リスト

「過去からの弔鐘」 二見文庫 1987
「冬を恐れた女」 二見文庫 1987
「一ドル銀貨の遺言」 二見文庫 1989
「暗闇にひと突き」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1985
「八百万の死にざま」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1984
「聖なる酒場の挽歌」 二見文庫 1986
「慈悲深い死」 二見文庫 1990
「墓場への切符」 二見書房 1991
「倒錯の舞踏」 二見書房 1992
「獣たちの墓」 二見書房 1993
「死者との誓い」 二見書房 1995
「死者の長い列」 二見書房 1995
「死刑宣告」 二見書房 1996
「皆殺し」 二見書房 1999
「死への祈り」 二見書房 2002
「すべては死にゆく」 二見書房 2006  

Posted by THE WHISKEY at 14:00Comments(2)TrackBack(0)メーカーズ・マーク

2009年06月09日

オールド・ディック



















 ちょっと走れば息切れして死神の顔が見えてくるし、十五年も仕事にはごぶさた-こんな老いぼれ探偵ジェイクになぜか仕事が舞い込んだ。元ギャングのサルが、誘拐された孫の身代金受渡しに同行してくれというのだ。だが、ご老体二人は何者かに殴られて金を奪われてしまった。その上、サルが急に姿を消した。友人たちは、彼が二年前に死んでいるはずだという。事件は、ジェイクが予想もしなかった方向へ……
裏表紙ストーリー紹介より

 私立探偵の老後を描いた異色のハードボイルド小説で、MWA賞を受賞し、日本でも「マルタの鷹協会」のファルコン賞に輝きました。

 若いころはタフで有能な私立探偵として鳴らしたジェイク・スパナーも、78歳になったいま、すっかり身体は錆びつき、しがない探偵稼業で蓄えがあるはずもなく、貧乏で無聊をかこつ日々を送っています。
 年齢といい、ロスアンジェルスが舞台といい、もし、フィリップ・マーロウが、「プードル・スプリング物語」以降、リンダ・ローリングと別れて独りで齢を重ねていたら、似たような暮らしぶりだっただろうと思わせる、マーロウのファンにとってはちょっと寂しい、滑稽でいて哀愁の漂う秀作です。

 それに比べてロバート・B・パーカーのスペンサーは、同じ年代なのに相変わらず腕力にものをいわせているし、クワークとベルソンのコンビにしても、ボストン市警は有能なはずの彼らを昇進もさせず、いったい、いつまで働かせるつもりなのでしょうね。

「おまえはまったく変わっていないんだな、ジェイク・スパナー? クソ! 四十年前も、おまえはまったく同じことをいい、自分、もしくはくだらん依頼人どものいざこざを解決するためにおれから警察部内の情報をひきだそうとしていやがった。いつも、救いの神みたいにこのオブライエンのところに駆けこんできたっけ」
 わたしは肩をすくめたが、それにはなにもこたえなかった。彼とのつきあいは長かったから、このようにどなりちらし罵るのはすでに手を貸すと決意しているということはわかっていた。もし興味がなければ、はっきりとそういい、すべては終りだった。四十年前と少しも変わってはいない。
「そして今度は、おれが警察内部の人間とちょっとしたつながりがあるという事実を利用したいってわけか? その人間がおれに対してもっているだろうと思われるわずかの好意を利用して、そいつに警察の規定を破らせ、その立場や将来まで危うくなるようなことをさせようというんだな? オブライエン一族は末代までクソ忌々しいジェイク・スパナーにふりかかった火の粉をはらってやる義務を負ってるってわけか?」いい終えて、彼はこれだけの長いせりふを一気にいうだけの息がのこっていたことに少し驚いている表情になった。
 もう一度、わたしは肩をすくめた。そして、こういった。「それで?」
「なんだと?」
「もっとほかにいいたいことがあるはずだ」
 彼の眼が光った。「あるとも」そして、深く息を吸いこんだ。「それで、おまえは半パイントのウィスキーの手みやげでおれがその頼みを聞くはずだと思ってるんだな? そうなんだろう?」
「まあ、そんなところかな」
「いいか、はっきりいっとくぞ、ジェイク・スパナー。おれはたしかに老いぼれで、動作が鈍く、病気で、頭もおかしくなっているかもしれんが、そんなに安く買収されたりはしない。冗談じゃない。おれの品位を犠牲にし、いやな気分に耐え、警部補の地位を危険にさらすのなら、少なくとももう一びん要求する権利がある」
 わたしは溜め息をついた。「わかったよ」
「それも、今度はもっといいウィスキーだぞ」彼はほとんど空になったびんをつかんだ手をいっぱいにのばし、眼を細めてラベルを見つめた。「アイリッシュ・ウィスキーに<レヴィズ・セレクト>とはどういうことなんだ?」
「酒屋の商標さ。名前なんか問題じゃないだろう」
「いったん飲んじまえばな。このつぎはもっといいのにしてくれ-少なくとも、アイルランド人の酒屋のつくっているやつだ。<レヴィズ・セレクト>だと! なんてこった!」


 アメリカでは、酒屋やスーパーが販売している安価なオリジナル・ブランドのウイスキーがそれなりのシェアを占めており、一部は日本にも輸入されています。



















 バーボンだとこんな銘柄も出回っていました。本国ではブラック・イーグルという姉妹品も発売されているそうです。  

2009年06月03日

イローナの四人の父親




















 一九五六年十一月四日未明、ソヴィエトのタンクは轟音を上げてブダペストへ侵攻し、ハンガリー革命を野蛮にも押し潰した。五週間後、エヴァ・マレイターは最初の愛人を受け入れた。カネのために受け入れたのだった。その週のうちに彼女は、やはりカネのために、さらに三人の愛人を受け入れたが、それっきりで娼婦稼業はやめにした。
 二週間後、彼女は関係した四人の男たちになんとか連絡をつけ、自分が住む大変質素なアパートでの昼食に招待した。四人とも招待を受け入れた。
 昼食は堅苦しい雰囲気のうちに始まった。四人の男たちは初対面で、テーブルのそばに固まって立っていた。彼女は紹介を兼ねてひとりひとりを指さし、名前を呼んだ。
「ミハイル・セーロフ、ポール・ブラッシャー、クラウス・グデリアン、ジャック・モス」
 彼らは手にグラスを持っていた。彼女は闇市で首尾よく二本のトケイ・ワインを買うことができたのだった。男たちはみんな自分ひとりだけが彼女と差し向かいの昼食に呼ばれたものと思っていた。大尉の制服姿のロシア人セーロフは傲然とした顔つきをしていた。赤軍軍人が当時のブダペストで外国人と同席した場合によく見せる表情だった。アメリカ人モスはいやなものでも見るようにちらちらとセーロフのほうを見つづけていた。見ずにはいられないというようすだった。ドイツ人グデリアンは非常に背の高い、ほっそりした男だったが、薄青の目が目立つ顔の表情をまったく変えない古典的ポーカーフェイスで立っていた。ブラッシャーもまた背が高かったが、でっぷりしていた。彼は困った立場に立った時のイギリス人ならだれでもするようなことをしていた。つまり、少し退屈そうな表情を浮かべていたのだった。


 突飛なアイデアに驚き、面白さに唸った、冒険小説の傑作です。ちょっと長くなりますが、もう少しプロローグから引用します。

 彼らはいまテーブルを囲んで坐っていた。彼女は自分のために盛りつけた少量の料理を食べ終えると、ごく普通の会話を始めるようにして言った。「わたし妊娠しちゃったの。それで堕ろすことに決めたんだけど、いろいろあって国立病院には行けないの。違法堕胎にはおカネがかかるのよ……わたしには払えないほどのおカネがね……父親はあなたたち四人のうちのだれかなの。ほかにいるはずがないの」
 彼女は男たちをひとりずつ順に眺めた。彼女が話を切り出す前にも沈黙は続いていたのだが、いまや際限もなく深い沈黙へ変わった。彼女は話を続けた。
「信じてくれないかも知れないけど、わたしにはどうしようもないの。あなたたちのだれかひとりに助けを求めることもできたんだけど、みんなを集めて話すほうが公平だと思ったわけ」
 彼女はこの時に備え入念にリハーサルしておいたのだった。立ち上がって空の皿を集めながら言った。
「みんなで話し合って。お願い。わたしはキッチンへコーヒーを入れに行くわ。結論が出たら呼んでちょうだい」
 キッチンで彼女はコーヒーポットをホットプレートに載せ、皿を洗った。それからストゥールに坐って待った。となりの部屋からは男たちのひそひそ声が聞こえてきた。彼女は待った。男たちとの対面が怖かったが、気持ちを鎮めるように努力した。コーヒーが沸いたので、四つのマグカップといっしょにポットをトレイに載せ、また坐り直して待った。男たちの声は前より大きくなってきた。議論になっているようすだった。アメリカ人の声が聞こえてきた。激しい調子の声だった。
「ぼくは賛成できない……絶対にだめだ! そういうのは好きじゃない」
 彼女は十五分待った。それから突然立ち上がり、大股にドアのところへ行って開けると、男たちを睨みつけた。
「わたしにはこれは宝物なの……」彼女の声はとげとげしかった。「大事な大事なものなの。でもあなたたちにはそうじゃないのね……意見が一致しないんだったら出て行って!」
 そう言いながら彼女はウォッカの瓶一本が開けられ、すでに半分ほどに減っていることに気づいた。
 ロシア人が言った。「エヴァ、生まれてくる子供が男の子の場合の名前はすでに決めたんだがね、女の子の名前についてはまだ議論中なんだ」


 1956年、動乱に揺れる街ブダペストで、祖国を違える4人のスパイとひとりの女が関係した。そして生まれた娘、イローナ。誰が本当の父親なのかわからないまま14年の月日が流れ、美しく成長した娘と4人の“父親”は出会いの時を迎えた。しかし、娘が何者かに誘拐された! その道では百戦錬磨の男たちによる必死の救出作戦が始まった。
裏表紙ストーリー紹介より

 ピョートル・カヴェーリン将軍は編んだ帽子を脱いで机の上へ投げた。それから机の引き出しをそっと開けると、シングルモルトのスコッチ“ザ・マッカラン”一本とショットグラス二個を取り出した。グラスに縁までウィスキーを注ぐと、ひとつを慎重に机の向こう側へ押しやりながら言った。「ミハイル・セーロフ、この世に完璧なものはなにもないと言われているが、まさに私はここにふたつの実例を持っていて、それが間違っていることを証明しなければならない」彼はスコッチの味を試した。「これは完璧だ……そしてきみもまたそうだ……完璧な男だ」

 世界最強と噂されたソ連の特殊部隊、スペッツナズの大佐、CIA、西ドイツ情報部のBND、MI6、それぞれにトップ・エージェントの父親たちが、娘の危機にさいしてどんな活躍を見せるのか。
 荒唐無稽な物語だけれど、あえてその嘘にまんまと騙されてみませんか。作家と読者のあうんの呼吸でいっそう愉しめる一冊ですから。

 セーロフはグラスを飲み干して立ち上がった。「ありがとうございます。将軍」彼は挨拶をしてドアのほうへ歩きかけたが、途中でふり向いて訊いた。「将軍、ひとつお尋ねしてよろしいですか?」
「いいとも」
「そのウィスキーはどこで手に入れたんです?」
 カヴェーリンはにこりとした。「ブレジネフからだ」セーロフの顔に驚きの表情が広がるのを見ると、カヴェーリンはいっそう相好を崩した。「そう、われらがよき指導者ブレジネフからなんだ。一、二週間前、私はモスクワでのレセプションに出席したんだが、その時ブレジネフと飲みものについておしゃべりした。うまいウォッカに対抗できるのは上等なシングルモルトのウィスキーしかない、と私が彼に言ったところ、一週間後に“ザ・マッカラン”二十ケースが届けられたってわけだ」
「二十ケースも!」
 カヴェーリンはますますにこやかになった。「そう。特別機で送られてきた。いいかね、大佐、これはだれもが……しかし、まあ、だれもがスペッツナズの司令官とは仲よくしたいものなんだ」


 このブレジネフがスペッツナズの司令官にマッカランを贈ったうんぬんの台詞は、1954年に当時のソ連首相、フルチショフが英国を訪れたさいの晩餐会で、それまでの慣例を覆してコニャックの代わりにマッカランが供された、マッカランをマッカランたらしめた有名なエピソードを下敷きにしたのだと思います。
 1983年にサッチャーがゴルバチョフと会ったときは、やはりグレンファークラスの105を勧めたのでしょうかね。
  

Posted by THE WHISKEY at 14:00Comments(4)TrackBack(0)マッカラン