2009年06月18日
手負いの森

その老人は、むせかえるように暑い温室で私を待っていた。私立探偵の私は、暗黒街のボスである老人から、過激な環境保護グループの一員となり家出した孫娘を連れ戻すよう依頼されたのだ。やがて私は、孫娘の居所と彼女が密会する若者が住む小屋を探りあてた。だがその晩、小屋は焼け落ち、さらに私の身辺にも卑劣な罠が……
裏表紙ストーリー紹介より
親権を奪われた父親が飛び降り自殺しようとするのを説得するオープニングから、ウィルソン・ピケットの「ダンス天国」の合唱のなかで迎えるラストまで、ホンキートンク・ピアノのエイト・ビートのリフを聴いているかのような、ちょっと調子外れでストレートなハードボイルド小説です。
新人作家とはいえ、ミステリーに長らく親しんだ四十男が満を持して書き上げただけに、キャラクターの造形といい、プロットの確かさといい、なかなか達者な筆遣いで、とくに、「シングルモルト・ウィスキーを愛しすぎたために」社会的な地位を失った元編集者ら、主人公の調査を手伝うホームレスの老人たちの言動は噴飯ものです。皆さまがたもご自愛くださいませ。
ちなみに、冗談みたいなペンネームは本名だそうです。
翌日、夜明けのずっと前に、私はエイモス・ジョンソンとビュフォード・パターソンの間にはさまって、ビュフォードのがたがたのピックアップ・トラックに乗っていた。車はスノクァルミー峠をあえぎながら登っている。
エイモスとビュフォードがやりとりするオールド・クロウの瓶が私の顔の前を行ったり来たりした。三回に一回ぐらいはどちらかが気がついて、私にも一口どうかと礼儀正しく勧めた。私はそのたびに断った。
琥珀色のバーボン・ウィスキーの芳香には興味をそそられ、大人の仲間入りをしてみたいという強烈な欲求を覚えもしたが、エイモスもビュフォードも飲みながら噛み煙草をくちゃくちゃと噛んでいた。瓶がエイモスの膝の上で小休止しているときに見ると、ウィンターグリーン・オイルで香りをつけた噛み煙草のかすが、ウィスキーの表面にスペイン無敵艦隊のようにゆったりと浮かんでいるのが目についた。その煙草を歯で漉して飲むのかと思うと、とても手が出なかった。
ジェイムズ・クロウは、1789年にスコットランドで生まれました。
エディンバラで医学を修め、1820年にアメリカに渡り、兄弟とともに事業を始めます。しかし、失敗して破産の憂目に遭い、1823年にフランクフォートへ流浪してきたときに、ウィリス・フィールドと出会いました。
フィールドはクロウの化学の知識に着目して、ウッドフォード郡のグリアー・クリークにあった自分の蒸留所で雇うことにします。
クロウは、従来の経験だけに頼ったウイスキー造りを、比重計などを導入して科学的な立場で見直し、1835年にサワー・マッシュ製法を完成させたほか、次つぎと業界に変革をもたらします。クロウのウイスキーがルビー・リカーと喩えられたように、樽のファイアリングを行なったのも、彼が最初といわれています。
フィールドの蒸留所で10年あまり働いたあと、オールド・オスカー・ペッパー蒸留所やジョンソン蒸留所も手がけ、1856年に67歳で亡くなるまで、バーボンの品質の向上に大いに尽力しました。
彼が確立した多くの技術は、オスカー・ペッパー、アンダーソン・ジョンソン、その息子のヴァン・ジョンソン、ウィリアム・ミッチェルらに受け継がれ、1860年、オスカー・ペッパーがミルヴィル近郊のグレン・クリークに新しい蒸留所を建設したさい、クロウへの敬意をこめてオールド・クロウ蒸留所と名づけます。
シンボルマークのカラスは、もちろん、ジェイムズ・クロウの名前をもじったもので、欧米では、カラスは「長寿」の象徴とされています。
蒸留所のウイスキーはたちまち評判を呼び、南北戦争で北軍を率いて勝利に導き、第18代アメリカ大統領に栄達した、ユリシス・S・グラント将軍も愛飲したと伝えられています。
オスカーはまもなく亡くなり、オールド・クロウ蒸留所は息子のジェイムズ・E・ペッパーが相続しました。
1870年代にフランクフォートのW・A・ゲインズ商会に売却され、W・A・ゲインズ商会は、禁酒法の影響で1922年に解散したものの、オールド・クロウのボトルラベルには、いまもW・A・ゲインズ商会の社名が記されています。
禁酒法が廃止された1935年、ナショナル・ディスティラーズ社の傘下のアメリカン・メディセナル・スピリッツ、AMS社が蒸留所を入手し、改修して操業を再開します。
1987年にアメリカン・ブランズ社にライセンスは移り、現在はジム・ビーム・ブランズ社が生産しており、旧オールド・クロウ蒸留所は、ウェアハウスとして使用されています。

バーボンは、やっぱり長くても8年までのボンデッドに限りますよね。



